原田宿(はるだ)[長崎街道] 旧:御笠郡原田村 現:筑紫野市原田HARUDA STATION

概要

筑紫神社
筑紫神社 
火消法被(筑紫野市歴史博物館所収)
火消法被(筑紫野市歴史博物館所収) 
筑紫神社 原田駅(解説)
筑紫神社 原田駅(解説)
『筑前名所図会』
筑紫神社 - 『筑前國続風土記附録』挿絵
筑紫神社 - 『筑前國続風土記附録』挿絵 

原田宿は筑前六宿のひとつで、筑後・肥前と接した宿場である。創設は慶長16年1611ころと言われている。

原田宿内にはそれぞれの旧跡の前に金属製の案内板が設置されているが、残念ながら風化の為ほとんどが判読不能である。 関係組織の皆様の改修を切に望むものである。

ここでは長崎街道の原田宿より次の田代宿の手前までについて述べる。

1800年代の当時の様子は『筑前名所図会』に筑紫神社、東構口の位置関係がよく描かれている。

筑前國続風土記』巻之9 御笠郡下の項に下記の記載がみられる。

○原田村

筑前國田代に通る宿驛也。 此宿の西九町に、肥前筑紫筑前三國の境、大路の東小山の上にあり。 三國境と云。 此村は筑紫村の内也。 後わかれて二村となる。

筑前国続風土記拾遺』巻之18 三笠郡 4 原田村の東伯寺の項に下記の記載がある。

此駅より山家駅にゆくと二日市駅にゆくとの街(路)あり。筑紫神社の南側をゆけば山家に到る。 北ハ二日市に出る。

原田宿は長崎街道と、博多もしくは福岡に到る街道との追分の宿でもあった。

原田宿周辺の散策スポットはこちら

ルート

東構口 → 伯東寺前 → 御茶屋跡 → 西構口 → 三国境 → 長崎街道道標 → 街道が復活したところ → 白坂観音堂 → 白坂薬師堂 → 猿田彦 → 天本家住宅 → 小倉の道標1 → 関屋上橋 → 小倉の道標2 → 道復活地点 → 木山口町東門 → 若宮八幡宮 → 西海製薬 → 青龍寺 → 松隈酒造場主屋 → 中村家住宅 → 基山商店 → 高島橋 → 基山の道標 → 山下薬師堂 → 天満神社 → 赤坂の道標 → 足洗川の道標 → 田代宿

Link

原田宿へ|めがねのコクラヤ


東構口 標高:42.3m MAP  4km以内の寺院検索

  • 東構口
    東構口 
  • 追分石 「左太宰府天満参詣道」
    追分石 「左太宰府天満参詣道」 

筑紫神社の1の鳥居の前あたりに東構口があったと言われている。写真でご覧のとおり、構口の面影はなにも無い。

東構口を出た所に「左太宰府天満参詣道」と記された追分石が立っている。 『長崎街道 世界とつながった道』によれば、追分石は文久4年1864に長崎の寄合町の商人が建てたもの。ここより北方に道があり、二日市宿宰府宿の順の太宰府天満宮への参詣道の出発点であった。


伯東寺前 標高:44m MAP  4km以内の寺院検索

伯東寺前の街道 - 田代宿に向かって撮影
伯東寺前の街道 - 田代宿に向かって撮影 
伯東寺内の”はらふと餅”案内板の絵
伯東寺内の”はらふと餅”案内板の絵 
”はらふと餅”をついたという臼 - 伯東寺本堂脇
”はらふと餅”をついたという臼 - 伯東寺本堂脇 

伯東寺は浄土真宗本願寺派の寺院でその山号を日東山という。

筑後国竹野郡筒井村にあった寺を延宝4年1676にこの地に移転したと言う。

本堂脇に原田宿の名物であった「はらふと餅」をついたと言われる石臼がある。 その案内板の絵を見ると当時の賑わいの様子がわかる。 ここにその案内板の内容をそのまま記載する。

はらふと餅とは、手のひらほどの大きな塩餡(しおあん)餅のことです。 険しい三国峠(みくにとうげ)冷水峠(ひやみずとうげ)を越えるときの "腹ごしらえ"として原田宿の名物になっていました。

近世後期から、江戸では、 小ぶりで砂糖餡の「大腹餅(だいふくもち)(のち大福)」が好まれるようになりました。 原田宿は長崎街道の宿場町で、 いち早く砂糖も通ったと考えられますが、 幕末に親しまれていた「原田宿のはらふと餅」は塩餡のままだったのか、 あるいは砂糖餡に変わっていたのか、 それを示す確実な史料は知られていません。

長崎街道 (大里・小倉と筑前六宿内宿通り底井野往還) (九州文化図録撰書 (1))』によれば、餅屋は東構口と筑紫神社の間にあったのではないかという記載がある。 時が過ぎ、その餅屋がなくなったときに臼をお寺内に持ち込んだものであろう。


御茶屋跡 標高:44.9m MAP  4km以内の寺院検索

  • 入り口
    入り口 

未稿


西構口 標高:47.4m MAP  4km以内の寺院検索

西構口 - 田代宿に向かって撮影
西構口 - 田代宿に向かって撮影 
案内板
案内板 
案内板
案内板 

西構口跡にはその痕跡は何も残っていない。 ただ、大きな案内板が3枚あるのみである。


三国境 標高:53.2m MAP  4km以内の寺院検索

二国境石-「是従東筑前國」
二国境石-「是従東筑前國」 
二国境石-「是従西肥前国対州領」文化4丁卯月建立の銘
二国境石-「是従西肥前国対州領」文化4丁卯月建立の銘 
国境石全景-中央が国境石、その両側の小さいのが傍示石
国境石全景-中央が国境石、その両側の小さいのが傍示石 
国境石-「是従東筑前國」 - 国道の反対側
国境石-「是従東筑前國」 - 国道の反対側 

この地点より直線距離で南東300mほどの三国山が筑前・筑後・肥前の三国を分かつ三国境である。

国道3号線脇に国境石がひっそりと立っている。

また、三国境石が国道の反対側の温泉施設アクアフォーレの裏山の山頂にある。 詳細は,ここ

この地の案内板の内容をそのまま記す。

国境石(くにさかいいし)

この境石は、肥前国(現在の佐賀県)と筑前国(現在の福岡県)の境界を示すものとして、文化4年1807対馬藩(つしまはん)と黒田藩との話し合いによって建てられました。 もとは、ここより東側15メートルの所に建っていました。 しかし、昭和60年度より一般国道3号のバイパス建設が行われたときに、境石の覆石(おおいいし)(基礎石) は南北の傍示石(ぼうじせき)とマンホールを建設してバイパス地下に現地保存して、その姿をここに復元しました。

当時、境石の建っていた地点は、国境の野地でそこに境界の「標」と考えられる松の木がありました。 その松の木が枯れたのを機会に境石を建てる議論が起こり、対馬藩は城戸村の庄屋、黒田藩は原田村の庄屋が 交渉にあたりました。 しかし、枯れた松の位置や野地の分け方について話し合いがつかなかったので境石の建設には、2ヶ年の歳月がかかりました。

境石の南側10.9メートルと北側11.8メートルの地点には、傍示石があります。 境石と傍示石は、二本の石柱を背中合わせにし、それぞれ「是従西肥前国対州領(これよりにしひぜんこくたいしゅうりょう)」 「是従東筑前国(これよりひがしちくぜんのくに)」ときざんでいます。また、これらの背中合わせにした線を 両国の境界としています。

境石は、高さ2.6メートル、太さ28センチメートル角の石柱で地中の覆石にはめこまれています。 また、傍示石の高さは、南側のものが1.5メートル、北側のものが1.2メートルです。太さは。いずれも28センチメートル角で 境石と同様に地中にはめこまれています。

昭和63年3月建設 建設省九州地方建設局


長崎街道道標 標高:53.6m MAP  4km以内の寺院検索

  • 道標
    道標 
  • 道標そばの街道-敷石が点在している
    道標そばの街道-敷石が点在している 

道標脇の街道が50mくらい続いてその先は行き止まりである。 その街道は敷石が残っている。


街道が復活したところ 標高:49.2m MAP  4km以内の寺院検索

  • 街道が復活したところ(この手前は雑木林となっている。) - 雑木林を背に撮影
    街道が復活したところ(この手前は雑木林となっている。) - 雑木林を背に撮影 
  • ここより街道が復活する - 田代宿に向かって撮影
    ここより街道が復活する - 田代宿に向かって撮影 

街道はこの手前の国道3号線のポプラ基山店付近からJRの線路を越えてこの地点に来るはずである。 その道は消失している。街道はここより復活する。


白坂観音堂 標高:51.6m MAP  4km以内の寺院検索

  • 観音堂
    観音堂 
  • 観音堂前の街道 - 田代宿に向かって撮影
    観音堂前の街道 - 田代宿に向かって撮影 

白坂観音堂は田代宿に向かって右の少し高くなったところにある。

古四国八十八ヶ所霊場第68番札所(本尊:観世音菩薩)

街道は当観音堂から上り坂となっており、この坂を「白坂」と呼ぶようだ。


白坂薬師堂 標高:44.2m MAP  4km以内の寺院検索

白坂(長崎街道。薬師堂は赤矢印の先) - 田代宿に向って撮影
白坂(長崎街道。薬師堂は赤矢印の先) - 田代宿に向って撮影 
薬師堂
薬師堂 

白坂薬師堂古四国八十八ヶ所霊場第67番札所(本尊:薬師如来)・ きやぶ天保八十八ヶ所巡り第76番(本尊:薬師如来)となっている。

手前の白坂観音堂から登ってきた街道は、当白坂薬師堂の手前で峠となり、この先はしばらく平坦な道となる。


猿田彦 標高:42.9m MAP  4km以内の寺院検索

猿田彦
猿田彦 
猿田彦前の街道 - 田代宿に向かって撮影
猿田彦前の街道 - 田代宿に向かって撮影 

巨大な猿田彦である。 取材中に近くの住人の方と思しき方がお参り手を合わせていた。 地元の方々の信仰心が厚いのであろう。

猿田彦の数10メートル先には白坂陣屋跡と思われる建物がある。この建物が何のためのものなのかは作者は知らない。(要調査


天本家住宅 標高:44m MAP  4km以内の寺院検索

天本家住宅
天本家住宅 
天本家住宅前の街道 - 田代宿に向って撮影
天本家住宅前の街道 - 田代宿に向って撮影 

天本家住宅は「長良屋(ながらや)」という屋号で呼ばれている。 田代売薬の商家としては最も古い例として挙げられている歴史的建造物である。

土蔵柱材に弘化3年1846の墨書があり、主屋もその建築構造から同時期に建てられたものと見られている。天明7年1787に対馬藩より認められ、「法奇応丸」という薬の看板を許されている。(以上 木山口町にみる歴史的風致より)


小倉の道標1 標高:43.4m MAP  4km以内の寺院検索

  • 道標- 田代宿に向かって撮影
    道標- 田代宿に向かって撮影 

街道右手に「長崎街道」の道標がある。


関屋上橋 標高:34m MAP  4km以内の寺院検索

NPO法人 基山の歴史と文化を語り継ぐ会:■「間宿」としての木山口町(その4)によれば、大田南畝1749-1832『小春紀行』で木山口町を通過した際の箇所に「土橋」という文字を2ヶ所記しておりそのうちの一つではないかという。


小倉の道標2 標高:34.7m MAP  4km以内の寺院検索

  • 道標前の街道(写真左隅に道標)- 田代宿に向かって撮影
    道標前の街道(写真左隅に道標)- 田代宿に向かって撮影 

「せきやかみはし」という橋を渡ると、街道左手に「長崎街道」の道標がある。

ここより次の道復活地点までは国道3号線関連の再開発の為街道が消滅している。要迂回。


道復活地点 標高:34.1m MAP  4km以内の寺院検索

ここより、長崎街道と分岐して南下している道は「博多道」である。 この博多道をたどりと小郡方面へ行くとその先薩摩街道松崎宿へ至る。(NPO法人 基山の歴史と文化を語り継ぐ会:■「間宿」としての木山口町(その3)より)


木山口町東門 標高:34.1m MAP  4km以内の寺院検索

ここより基山商店のあたりまでを昔は「木山口町」と呼ばれていた。

木山口町は原田宿と田代宿との間の「間宿(あいのじゅく)」であった。

NPO法人 基山の歴史と文化を語り継ぐ会:■「一里塚」跡によれば、このあたりに古地図で「・」が2つ記入された「一里塚」があったと言われているが、作者の経験的に、この記号は「木戸」あるいは「門」を表しているもの。このあたりに木山口町の東側の入口の門があったのではないだろうか?


若宮八幡宮 標高:35.9m MAP  4km以内の寺院検索

若宮八幡宮
若宮八幡宮 
若宮八幡宮前の街道- 田代宿に向かって撮影
若宮八幡宮前の街道- 田代宿に向かって撮影 
鳥居前の猿田彦
鳥居前の猿田彦 
本殿前の獅子(文政<sub>1818-1829</sub>の銘)
本殿前の獅子(文政1818-1829の銘) 

鹿児島本線をふたたびまたぐとすぐ右手の丘の上に若宮八幡宮が鎮座している。

本殿前の狛犬には文政1818-1829の銘あり。 境内には社殿の脇には千手観音が祀られる観音堂がある。 詳しくは若宮八幡神社を参照のこと。

境内の案内板(平成26年2014 若宮八幡神社氏子一同)によれば正式には「木山口町若宮八幡神社」という。 当社は承応年間1652-1654に創建されたと伝わる。 初代別当牟田吉右衛門(むたきちうえもん)が、町民の総意により鎮守として建立した。 花見・夏のラジオ体操・グラウンドゴルフの練習などが行われている。


西海製薬 標高:37.5m MAP  4km以内の寺院検索

西海製薬建屋(左右方向が長崎街道)
西海製薬建屋(左右方向が長崎街道) 
西海製薬正面玄関
西海製薬正面玄関 

西海製薬は、大正4年191511月に天本龍之助ほか5名を発起人として西海製剤合資会社として設立 された。現社屋は、昭和29年1954に改築され、木造2階建。(木山口町にみる歴史的風致より) )


青龍寺 標高:35.9m MAP  4km以内の寺院検索

本堂
本堂 
全景(左右方向の道は長崎街道)
全景(左右方向の道は長崎街道) 

青龍寺は松巌山と号し天台宗の寺院である。

寛永年間1624-1644豪瞬阿闍梨を開基とし、鍋島藩主勝茂の発願により佐賀城の鬼門守護として、神埼郡岩田の庄、日の隈山麓に創建された。江戸時代は佐賀城鬼門除け鎮城祈祷所として繁栄した。明治後期、「養基の聖」と崇敬されていた天野浄光和尚が中興した。

九州四十九院薬師霊場第46番札所である。


松隈酒造場主屋 標高:35.9m MAP  4km以内の寺院検索

松隈酒造場主屋
松隈酒造場主屋 
この石塔はなんだろう? - 玄関前
この石塔はなんだろう? - 玄関前 

主屋は明治中期に建築された入母屋造りである。 『基山町史資料編』によると、大正10年1921頃に草葺きから桟瓦葺きとなり、妻入り木造二階建てとして現存している。松隈酒造場として背後には造酒屋の蔵があったが、一棟を残し多くは失われ、主屋のみが盛んに行われていた造酒屋の風情を残している。(木山口町にみる歴史的風致より)


中村家住宅 標高:35m MAP  4km以内の寺院検索

中村家住宅
中村家住宅 
中村家住宅前の街道 - 田代宿に向って撮影
中村家住宅前の街道 - 田代宿に向って撮影 
表札(懐かしい二桁の電話番号)
表札(懐かしい二桁の電話番号) 

大正1912-1926前期の建築とされる入母屋造り桟瓦葺き、平入り木造二階建ての建造物で、接待のために設けられた二階広間の横には、大正期の建築としては町内でも珍しく二階にもトイレを設けている。(木山口町にみる歴史的風致より)

街道はここで緩やかにカーブしている。


基山商店 標高:32.6m MAP  4km以内の寺院検索

基山商店脇の長崎街道(右手が基山商店)
基山商店脇の長崎街道(右手が基山商店) 
基山商店
基山商店 
基山商店店舗
基山商店店舗 
基山商店店舗入口の鶴の装飾
基山商店店舗入口の鶴の装飾 
古い貯蔵タンク
古い貯蔵タンク 
店舗内
店舗内 
年代もののレジスタ - 店舗内
年代もののレジスタ - 店舗内 
天井(多数のツバメの巣) - 店舗内
天井(多数のツバメの巣) - 店舗内 
基山商店より少し手前の「長崎街道」の石碑
基山商店より少し手前の「長崎街道」の石碑 

主屋背後に酒造蔵が建ち並び、敷地の最も北側に入母屋造り桟瓦葺きで、平入二階建ての酒造蔵がある。屋根小屋組みにトラス構造を有し、『基山町史 資料編』では大正1912-1926末期から昭和初期の建築とされている。(木山口町にみる歴史的風致より)

当店の酒蔵・精米所・店舗の敷地面積は広大である。

店舗内には年代物のレジスタ、店舗の天井には多数のツバメの巣がある。 多くのツバメが出入りしていた。

街道はこの基山商店の手前で実松川に架けられた実松橋をわたり、左にカーブ。 しばらくは実松川の川沿いの道となる。


高島橋 標高:30.5m MAP  4km以内の寺院検索

高島橋 - 下流より撮影
高島橋 - 下流より撮影 
橋のたもとの「源氏ほたる発祥の地」の塔
橋のたもとの「源氏ほたる発祥の地」の塔 
上流側の風景 - 高島橋上より撮影
上流側の風景 - 高島橋上より撮影 
瀧光徳寺の五重塔(と思われる) - 高島橋上より望遠にて撮影
瀧光徳寺の五重塔(と思われる) - 高島橋上より望遠にて撮影 
本福寺の五重塔(と思われる) - 高島橋上より望遠にて撮影
本福寺の五重塔(と思われる) - 高島橋上より望遠にて撮影 

高島橋は秋光川に架けられた橋である。

NPO法人 基山の歴史と文化を語り継ぐ会:■「間宿」としての木山口町(その4)によれば、大田南畝1749-1832『小春紀行』で木山口町を通過した際の箇所に「土橋」という文字を2ヶ所記しておりそのうちの一つではないかという。

橋の上からの基山(きざん)の山並みの風景はなかなかのもの。 山内に大伽藍を構える瀧光徳寺本福寺の五重塔も眺めることができる。

橋のたもとには「「源氏ほたる発祥の地」と記された塔が立っている。


基山の道標 標高:30.4m MAP  4km以内の寺院検索

  • 道標- 田代宿に向かって撮影
    道標- 田代宿に向かって撮影 

道標の前の街道はかなりの交通量である。

道標脇の案内板の内容を抜粋する。

(前略)

街道沿いにある基山町は、田代宿(鳥栖市)と原田宿(筑紫野市)の間にあり、 約7.5kmの行程でケンペルの江戸参府旅行日記に、白坂、木山口などの地名が見える。 木山口町は、長崎街道沿いに正保2年1645成立した町で、 木山口若宮八幡宮縁起によると、千塔山の麓を開き町をつくり、 木山(基山(きやま))の入口に位置することにより、木山口と称したとある。 また、田代宿と原田宿の間にあって木山口宿とよばれ、現在も字名に"宿"の名をとどめている。


山下薬師堂 標高:28.1m MAP  4km以内の寺院検索

参道口(右手。前後方向の道が長崎街道) - 田代宿に向って撮影
参道口(右手。前後方向の道が長崎街道) - 田代宿に向って撮影 
薬師堂入口(木の扉が設置されている)
薬師堂入口(木の扉が設置されている) 

山下薬師堂古四国八十八ヶ所霊場第26番札所(本尊:薬師如来)・ 明治四国巡拝札番不詳(本尊:薬師如来)となっている。


天満神社 標高:38.4m MAP  4km以内の寺院検索

境内風景
境内風景 
天満神社前の街道- 田代宿に向かって撮影
天満神社前の街道- 田代宿に向かって撮影 
大黒天
大黒天 
庚申尊天
庚申尊天 

境内には大黒天の石像があるが拡大写真を撮影しなかった。次回取材の際はこの写真も撮影しよう。

神社前には街道をはさんで庚申尊天が鎮座している。そこの案内板の内容を下に記載する。

長崎街道・今町

長崎街道は江戸時代、西洋文明への唯一の窓口だった長崎と、 小倉を結ぶ25宿・57里の往来でした。 鳥栖市内には、北が筑前原田(はるだ)宿・西が肥前中原(なかばる)へと通じる道筋が通り抜けていました。

今町は北の木山口(きやまぐち)~南の田代(たじろ)宿間の街並で、 街道沿いに(のき)を連ねるように家並が続いていました。 元禄絵図によれば、町立されたのは承応2年1653で、 通りの東は奈良田(ならた)村・西は柚比(ゆび)村に属していました。 合計30戸ばかりの家並が続いていたようです。

現在も街並はさほど壊されることもなく残り、 昔からの祭り"恵比寿(えびす)さん"も引き続き()り行われれています。

鳥栖市教育委員会

庚申尊天前の石碑には寛政10念(年)1798の銘がある。


赤坂の道標 標高:30.1m MAP  4km以内の寺院検索

  • 道標
    道標 
  • 道標前の街道- 田代宿に向かって撮影
    道標前の街道- 田代宿に向かって撮影 

「長崎街道左・原田宿へ(赤坂)」「長崎街道右・田代宿へ(赤坂)

道標付近の街道は上り坂になっている。


足洗川の道標 標高:20.7m MAP  4km以内の寺院検索

道標
道標 

「長崎街道左・原田宿へ(足洗川)」「長崎街道右・田代宿へ(足洗川)

ここ過ぎると程なくして田代宿内に入る。