三瀬街道
概要
ここでは、筑前国の唐津街道西新の追分より、飯場峠・三瀬峠(筑前・肥前の国境)を越え長崎街道のルート上にある佐賀城下へ至る近世の道について記す。 総延長約12里(47.2km、唐津街道との追分-飯場峠迄約2里6町、飯場峠-三瀬峠約1里8町、三瀬峠-佐賀城約7里6町。Google Mapにて概算測定。)の道のりである。
この街道は福岡側からは「佐賀道」あるいは「三瀬街道」、肥前佐賀側からは「川上往還」と呼ばれていたという。
この街道は所謂「殿様道」ではなく庶民が主に物資の運搬などに利用したもののようである。 筑前から肥前へは、塩・魚などの海産物。肥前から筑前へは、米・木炭など。
[お断り] 本ページは主に下記の史料をもとに作成しています。 「三瀬街道」あるいは「川上往還」そのものズバリの史料がなく、未知のルートについては、作者のこれまでの拙い街道歩きの経験を元に掲載しています。 歴史学・地理学的な検討は何ら行っていません。ご承知おきください。
参考資料
- 今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部(1922年の地図)
- 佐賀県立図書館データベース- 古地図・絵図データベース
- [PDF]旧三瀬街道
- 1/50000-濱崎(陸軍参謀本部・昭和11年修正) - ©Stanford University
- 1/50000-背振山(陸軍参謀本部・昭和11年修正) - ©Stanford University
- 1/50000-福岡(陸軍参謀本部・昭和11年修正) - ©Stanford University
- 1/50000-佐賀(陸軍参謀本部・昭和11年修正) - ©Stanford University
- 『三瀬村誌』 p256 佐賀の乱の項
- 『大和町史』 p242 5.高札と伝馬 ○高札の項
- 街道と宿場町(アクロス福岡文化誌)p102
- 聾(つんぼ)なおし地蔵※歴史的固有名詞であるためそのまま使用しています|さがの歴史・文化お宝帳
地図
※地図中のマーカをクリックすると、その地点の詳細な案内へのリンクが表示されます。
より大きな地図(コントローラボタン付き)で地図を表示。三瀬街道の起点 標高:9.2mMAP 4km以内の寺院検索
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この地点は福岡市内を南北に横断していた唐津街道と三瀬街道との分岐点である。 ここは藤崎商店街となっており、平日でも人通りが多い。
、福岡市早良区西新にお住まいの山崎様から電子メールを頂き、三瀬街道の基点について興味深い事を教えて頂いた。以下一部を引用する。
明治35年の地図(左)では、皿山を南北縦断する道路が1本、大正元年の地図(右)は左記の道路が点線道(赤色)でさらに西側に道路(水色)が記載されています。この道路(西側の道)は、千眼寺の住職の話によると、檀家である皿山の南端に高取焼を生業とした原幸六さんが唐津街道まで荷車で荷を運ぶのに明治35年の道路では難儀したため、皿山の西側の平坦地を通るようになった。これが楽であり、佐賀道(三瀬街道)となったそうです。ちなみに千眼寺では、この原さんを「新道の原さん」と呼んでいたそうです。
右の大正元年の地図で、赤線の道が古い三瀬街道(明治35年以前)。水色の道が「新道」である。 作者は両方の道を歩いて見たが、明治35年以前の道はちょうど紅葉八幡宮の鳥居あたりが峠となる坂道で荷車を引いて通るのはかなりきついと実感できた。 一方、「新道」は多少の起伏はあるもののほぼ平坦な道となっている。
山崎様から連絡を頂く前はこの「新道」を三瀬街道として掲載していたが、このたび明治35年時点にあった道をそのルートとするように訂正した。
商家 標高:9.4mMAP 4km以内の寺院検索
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この地点は緩やかな上り坂である。
紅葉八幡宮 標高:8.7mMAP 4km以内の寺院検索
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紅葉八幡宮は元は西区の橋本に創建されたが、寛文6年(1666)参拝の利便を考え、百道松原に遷宮。 大正2年、さらにこの地に遷宮された。 福岡藩の「西の祈願所」といわれている。
紅葉八幡宮のすぐ北側には高取焼味楽窯がある。 窯が一列にならんだ景色は壮観である。 下に案内板の内容を記載する。
高取焼窯元(亀井味楽)
高取焼は、福岡藩の藩祖黒田如水・初代藩主長政父子が朝鮮から八山という陶工を連れ帰り、 慶長11年(1606)鷹取山(直方市)の麓に窯を開かせたのが起源とされます。
その後、歴代藩主の手厚い保護と、茶人小堀遠州の指導により確立された伝統技術が今も受け継がれています。 14代亀井味楽は、その技術を伝承しながらの新たな作品づくりが認められ、福岡市無形文化財工芸技術保護者に指定されました。
福岡市
道消失地点 標高:6.3mMAP 4km以内の寺院検索
ここから次の新開橋南までは、宅地開発の為か道は消失している。
新開橋南 標高:2.6mMAP 4km以内の寺院検索
一つ前のポイントで消失した街道はここで復活する。 写真の手前は県道558号線、街道は「うどん」の看板のある建物(写真中央)右手の脇道に入る。
金屑橋 標高:2.8mMAP 4km以内の寺院検索
街道はこの金屑橋を渡り、油山川に沿って南進する。
次郎丸分岐点 標高:10.3mMAP 4km以内の寺院検索
写真の手前は県道558号線、街道は「八女茶」の看板のある建物右手の脇道に入る。
次郎丸 標高:10.1mMAP 4km以内の寺院検索
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江戸中期から明治にかけて醤油や酢の醸造元、酒屋、染物屋、質屋、紺屋などが軒を連ねて賑わっていたが,残念ながら今はどの店も廃業している。([W]福岡市のHPより)
この地点から100mほど北側までの街道沿いの風景は昔ながらの町家の家並みが見られる。 道幅も2間くらい。三瀬街道で金武宿と並び、当時の面影を残している所である。
踏査のおり、民家の敷地内に小堂を発見。 ご本尊は遠くて見えない。残念。(右写真参照のこと)
田村分岐点 標高:18.7mMAP 4km以内の寺院検索
ここまで県道49号線を通ってきた街道は、写真右手の脇道に分岐する。
市営四箇住宅7棟西 標高:23.4mMAP 4km以内の寺院検索
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街道はここで室見川に突き当り、左折。 その先暫く川沿いの道を進む。
街道の曲り角にはかなり大きな木があり、その脇に自然石でできた石碑がある。少し傾いている。 表側の面に「本名 郡地川 井堰竣工記念」とある。裏側にも文字が刻まれているが判読不可。
この地点の室見川には立派な井堰が設置されているが、現在あるものはかなり新しいもののようだ。 この記念碑に刻まれた井堰はこの井堰の一世代前のものなのかも知れない。 「郡地川」とは室見川の別称かとも思ったが不明。
金武中学校 標高:25.2mMAP 4km以内の寺院検索
街道はここで室見川を渡り金武宿に向かう。 ここから次のポイントまでは道が消失している。
ここに橋が架けられていたかどうかは不明である。 川底を見る限りではその痕跡は見当たらない。
金武宿東口 標高:27.9mMAP 4km以内の寺院検索
飯場宿の出入り口については、作者は資料などは持ち合わせていない。ここをとりあえず、東側の出口と仮定する。
当時の面影を残す遺構などは何もみられない。
ここから宿場内は緩やかな登り坂となる。
金武御堂2 標高:37.3mMAP 4km以内の寺院検索
金武御堂2の扉は施錠されご本尊は確認できない。
金武宿案内板 標高:37.8mMAP 4km以内の寺院検索
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この地点には、福岡市西区役所による案内板 ・白壁造りの商家・ 天神社の参道口がある。 天神社の参道口は白壁造りの商家の西側の端である。
伊藤氏メモ[旧三瀬街道と金武宿]と題された西区役所による案内板(平成15年3月)の内容は下記のとおりである。()
早良平野には江戸時代中期頃から明治時代にかけて、佐賀と福岡とを結ぶ三瀬街道が通っていました。三瀬街道の要所にあたる金武には金武宿と呼ばれる宿場があり、筑前福岡藩領内の宿駅である筑前二十一宿の一つに数えられていました。
金武宿の中心は人馬継所(馬や人足の手配所)で、肥前から福岡へ向かう米や木炭などの荷物を積んだ馬の往来が多く、木賃宿が一軒ありました。また、福岡から肥前へは塩や海産物などの商品を山越えして運び、金武宿で荷捌きなどを行っていました。その他、金武宿には古くから醤油屋・酒屋があり、遅れて紺屋・質屋・雑貨屋などが軒を連ね、武士や商人などの旅人や近くの住民たちで活気に溢れていました。
都市の発展とともに近代的な建物が増えるなかで、石垣や漆喰壁の蔵などが当時のまま残っています。
『筑前國続風土記』巻二十によれば下記のとおりである。 原文のまま記載する。
○金武村
福岡より三里許有。是肥前三瀬越に行く道也。是より山を越えて一里半行ば、怡土郡飯場村有。 飯場より又山を越て三瀬へ行く。 飯場より三瀬へ一里廿二町有。金武の境内に立神山と云高山有。此山に岩多し。白石有。蠣殻多くつけり。 此所のみに限らず、夜須郡古所山にも蠣殻付たる大岩有。又他國にもあり。金武より怡土郡河原村へ越る道有。山を越行く。 龍嶺と云。
地蔵堂 標高:44.2mMAP 4km以内の寺院検索
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御堂内には地蔵菩薩と思しき石像と何かの御神体と思しき石が安置されている。
金武町公会堂 標高:45mMAP 4km以内の寺院検索
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当公会堂の歴史等は不詳。
金武宿西口 標高:46.1mMAP 4km以内の寺院検索
飯場宿の出入り口については、作者は資料などは持ち合わせていない。ここをとりあえず、西の出口と仮定する。
街道はここで県道562号線を横切る。宿場の出口を伺わせる遺構などは確認できない。
自動車販売店前 標高:46.8mMAP 4km以内の寺院検索
ここから次の金武庚申塔までは道は消失している。
金武庚申塔 標高:57.2mMAP 4km以内の寺院検索
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庚申塔は、民家の石垣下に建っている。 街道はここから飯場峠まではずっと登り坂である。 当時は道幅も狭く民家もほとんどなく両サイドの見通しも悪かったであろう。 旅人は、このあたりで「さー気合を入れて登るぜ!!」と決意を新たにしたのではなかろうか?
ここから東100m足らずの道路脇に真新しい道標が設置されている。 「金武宿」「旧三瀬街道」。 但し、この地点は街道のルートからはずれていると思われる。
この地点から西に100m余の地点に妙見社が鎮座している。 多数の樹木・拝殿軒下の飾り・拝殿内の絵馬などなかなかの見ものである。 お見逃しなく。
金武観音堂 標高:72.1mMAP 4km以内の寺院検索
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観音堂は街道脇に建てられている。そこは民家の入口である。 お祀りされている観音様は絵像である。
ここからは福岡市西部を一望できる。
恵比寿像 標高:85.3mMAP 4km以内の寺院検索
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この石碑の前を作者は過去何度か通った。 街道脇ではおなじみの猿田彦大神か庚申尊天と思い込んでいた。 今回()この石碑の拡大写真を撮影していて、はたと気がついた。 刻まれているのは文字ではなく人物像のようである。
佐賀県(肥前)内の長崎街道・唐津街道では恵比寿像が街道沿いに非常に多くみられる。 そう言えば、この街道も肥前(佐賀)に通じる道である。 ということで、作者はこの石碑を「恵比寿像」と勝手に考えた。 三瀬峠を越えてきた肥前の旅人が建てたものかもしれない。 専門家の鑑定が待たれる。
道標 標高:128.1mMAP 4km以内の寺院検索
「飯場峠・旧三瀬街道」「金武宿」
真新しい道標は、街道脇に建てられている。
登山口 標高:142mMAP 4km以内の寺院検索
ここから先にも道は続くがなぜか鎖で車両が通れないようにしてある。 ここから先、次の分かれ道までは落ち葉がかなりたまっているが、道は舗装されている。
2019-11-23、ここより飯場峠-飯場-曲渕のルートを多くの市民の皆さんと踏査。 ここより、飯場峠を越えて県道56号線に出るまでの時間は1時間20分であった。 ご参考まで。
その時の様子は飯場峠越え2019|画像を ご覧下さい。
分かれ道 標高:189.3mMAP 4km以内の寺院検索
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街道はここまではなだらかな上り坂であるが、ここから峠まではゴロ石・倒木・川などがあり かなりハードな上り坂である。
峠までは室見側に流れ込む小川に沿って進み、所々では小川の中も通る。 小川の中の岩には苔が付着して滑る。
に、さすがに単独行は無理とみて、KUさんに同行をお願いした。写真の人物はKUさんである。
余談ではあるが、ここから峠までオフロードバイクのものと思われる轍の跡が続いていた。 ここをバイクで登ったとすればかなりの達人である。
飯場峠(龍峠・龍嶺) 標高:373.4mMAP 4km以内の寺院検索
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峠にはなにもない。 ここから飯場側の県道56号線までは地図上では直線距離で500mほどの下り坂である。
『筑前国続風土記拾遺』巻之44 早良郡 中 金武村の項に下記の記載が見られる。
(前略)龍峠を越て飯場村に至り、南山を越て肥前國三瀬宿え至る。佐嘉えの大道なり。
また同巻之47 怡土郡 下 飯場村の項に下記の記載がみられる。
金武村より龍嶺を越此村(1里12町)に来る。肥前國神崎郡三瀬宿に通路す。 其間杖立嶺(文政元年(1818)11月疆石新に立。此処飯場村より1里三瀬よりハ1里に近し。 道の東は曲淵に属す。)(後略)
また同じ飯場村に東照山 真教寺がある旨の記載がある。 このことから地図上の距離の関係を考察すると「龍嶺」が現在の飯場峠、「飯場村」を現在の真教寺のある集落(福岡市早良区大字飯場), 杖立峠が現在の三瀬峠ではないかと考えられる。
『筑前國續風土記』巻之21 早良郡下 ○石竃(并)曲渕の項に下記の記事がみられる。
(前略)曲渕村に曲渕河内が家人三郎右衛門と云者、後に農人となり、富めり。 田畑160町、他村をかねて作る。 家の奴婢300餘人あり。牛馬数96疋持てり。 寛永16年(1639)に死す。曲渕より金武村へ越る道を初てひらきしと云。 宇土たうげと云。
ここで「宇土たうげ」が飯場峠(龍峠)と同じ峠ではなさそうであるが、 彼(三郎右衛門)が開いたルートと飯場峠(龍峠)越えのルートは大部分一致していたのではなかろうか?
三瀬街道道標1 標高:285.6mMAP 4km以内の寺院検索
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道標は林道の立ち入り禁止のフェンスの脇に立っている。 丸木橋があり、そこより街道が登っている。 街道は川のような状態で水が流れており、季節柄長いものの気配を感じ前進を断念。 秋以降に再チャレンジしよう。
ここより峠までの山林は伐採がされており山中は見通しが良さそうである。
三瀬街道道標2 標高:282.6mMAP 4km以内の寺院検索
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街道は飯場峠を越えてこの地点に降りてくる。 県道54号線沿いに「旧三瀬街道」の道標が新設されている。近年設置されたものと思われる。 作者もこの位置が街道上の地点と前々から思っていた。何方が設置されたかわからないがある程度確証が得られた(これを見つけた時は小躍りして喜んだ)。
街道は、ここで県道54号線を跨ぎ、昔ながらの道幅の山道となる。 緑のトンネルである。
石垣跡 標高:275.9mMAP 4km以内の寺院検索
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石垣にスギの木の根が食い込んでいる。 この石垣はかなり古いもののようである。 番所などの建物跡かも知れない。
街道は、ここから先はコンクリートで舗装されてはいるもののかなり道幅は狭い。
真教寺 標高:241mMAP 4km以内の寺院検索
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真教寺は東照山と号し、 浄土真宗本願寺派の寺院である。 この辺りが飯場宿の中心であると作者は推定するが確証は無い。宿駅の痕跡も確認できない。
宿駅ではあっても山間部の小村であったため人馬の調達が困難。 通行制限があったという。 だが、佐賀への最短ルートであった為、他国の旅行者・飛脚など通行が絶えなかった。 寛政年間(1789-1801)に地元民の願い出で通行が原則として禁止された。
『筑前國続風土記』巻之22 怡土郡 飯場村の項に下記の記載がみられる。
飯場は早良郡の金武より1里半長坂を越え行、深谷に有る村なり。(中略) 此村は谷の中狭くして田畠少し。村民毎日薪芒を福岡に持出て賣る。(中略) 此村より肥前の境迄一里、肥前の三瀬へ三里有。佐賀へ行く道なり。(当記事の全文は当ページの最下部に掲示している。)
庚申塔 標高:234.4mMAP 4km以内の寺院検索
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民家の軒先に立っている。 文字は劣化が著しい。
第二飯田橋脇のお堂 標高:234.2mMAP 4km以内の寺院検索
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お堂は傷みが激しい。御本尊は未確認。 街道はここで、飯場川を渡る。
第三飯田橋 標高:228.6mMAP 4km以内の寺院検索
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橋のたもとには、古い部材が並べられている。 ここで再び飯場川を渡る。 この先は右手の飯場川のせせらぎを聴きながらの平坦な道である。
大山祇神社参道口 標高:229.6mMAP 4km以内の寺院検索
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『筑前國続風土記附録』巻之42 怡土郡下 飯場村の項に下記の記事がみられる。
山神社(シモイゝバウチ・神殿3尺・社拝殿2間2間半・祭礼11月・鳥居1基・奉祀上原安藝)
産神也。祭る所大山祗命・磐長姫・木花開耶姫也。鎮座の年歴詳ならす。
現在の大山祇神社では伝統芸能「飯場神楽」(市指定文化財)が行われる。 明治25年(1892)に病気が流行ったために氏子の安全を願い、高祖神楽に倣って始まったもの。後継者不足などから一時休止していたものの、この貴重な伝統芸能が有志の熱意と地元の支援で再興された。(飯場神楽より)
静まり返った境内は木々に囲まれている。 初めて参拝した時は紅葉真っ盛り。イチョウの大木が美しく、社殿の屋根・前はイチョウの葉が敷き詰められていた。
野河内薬師堂 標高:239.4mMAP 4km以内の寺院検索
野河内薬師堂は、ここより「みそぎ橋」を渡った所にある。
この辺りからこの先の大山祗神社辺りまでは「野河内」と云ったようだ。 『筑前國続風土記』巻之22 怡土郡 飯場村の項に「飯場の3町下、曲渕の上に西南より流出る谷川有。其河上8町に野河内村有。是飯場村の枝村也。」とある。
奇岩 標高:248.3mMAP 4km以内の寺院検索
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変わった形の岩が道端に放置されている。 何らかの石塔ではなかろうか? あるいは、単なる岩?
この前後60mほどの街道は道幅は狭い。
大山祗神社 標高:256.1mMAP 4km以内の寺院検索
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門前の道は、だらだら坂の登りである。 神社境内には、イチョウ・杉の大木が見られ遠くからもよく目立つ。 拝殿内には昭和初期の色鮮やかな絵馬が多数掲げられている。 社殿の裏手には、八丁川が流れている。
この周辺には、「大山祗神社」は3社ある。曲淵、 飯場字先堂谷とここである。 下に『筑前國続風土記附録巻之39』 早良郡 中 曲渕村の項の記事を記すが、 この記事が当社に関するものかどうかはわからない。
大山祗社(神殿拝殿造續2間3間・祭礼9月24日・奉祀氏里出羽)
曲渕の岸上にあり・大山祗命・磐長姫命・木花開耶姫命也。 むかしハ、村の坤山の内に社ありしか、 天文元年(1532)郡司曲渕河内守此所に遷せりとなん。 舊宮の地をもと山の神といふ。
上の3社のうちのどれかが、「もと山の神」でどれかがこの記事の大山祗社であろうが、 今となっては作者の知る術がない。
鉄塔尾根口 標高:273.1mMAP 4km以内の寺院検索
ここの崖の上にコンクリート製の遺構がある。 その脇を登る山道が見える。 ひょっとするとこの道が本道かもわからないが、当サイトでは、そこを迂回して県道263号線沿いの道を正とする。
旧道口 標高:274.2mMAP 4km以内の寺院検索
ここより、次の旧道出口までの区間の上には、三瀬峠の有料道路のループ橋が走っている。 それを頭上に見ながら進む。橋の上から何か物が落ちて来ないか少し気になる。 道は舗装がされてはいるが、人気は無いし民家・商店なども無い。
旧道出口 標高:330.1mMAP 4km以内の寺院検索
ここで再び県道263号線に合流する。 ここより先は、この国道沿いの道を通り三瀬峠までのルートを三瀬街道の昔の道と呼ぶことにする。 この区間には過去の遺構などは作者は確認できていない。
ここより先峠までの道は道幅が狭く、走る車・バイクなどはかなりのスピードを出して走る。 事故にはくれぐれもご用心。
三瀬峠(杖立峠) 標高:582.5mMAP 4km以内の寺院検索
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街道はこの峠から肥前国(佐賀県)に入る。
ここには筑前・肥前の国境石と、聾なおし地蔵が見られる。両者は街道を挟んで向かい合うように立っている。
国境石はこの峠(国道263号線)の佐賀に向かって右手の土手の上にある。 石の高さはゆうに2mはある。(台座は土に埋もれて見えない) すごい存在感のある石である。作者が今まで見た国境石の中で一番である。
正面には南側(左手)に「從是南肥前國」北側(右手)に「從是北筑前國」と刻まれている。
北側の側面には「怡土郡飯場村抱」、南側の側面には「神崎郡三瀬山村」。
裏面には肥前(佐賀)側に「文化十五(1818)戊寅歳四月建立」、筑前側に「文化十五(1818)年戊寅四月建立」と刻まれている。
下に『三瀬村誌』(p670-p672)の一部を引用する。
この峠の近くには泉が涌き出ていて、むかし、旅人はそこに休んで咽をうるおした。大正5、6年頃(1916-1917)までは2、3軒、昭和(1926-1989)の初期には1軒の茶屋が残っていて、峠を越す人や祈願のために参詣する人々に、甘酒・砂糖餅・うどん・そば・おこし・飴がたなどを売っていた。峠についた人たちは、その茶屋や近くの草原に腰をおろして、肥筑の景色を眺めながら、世間話に花を咲かせた。
明治7年(1874)の佐賀の乱には、小倉鎮台の小笠原大尉の率いる官軍の一隊はこの道を進撃して来た。これに対し峠を死守しようとする江藤新平の副将六角大之進の指揮する北山軍勢との間に激しい戦闘が行なわれた。
三瀬城跡への道の始まり 標高:434.4mMAP 4km以内の寺院検索
ここより道なりに500m程進んだ山中に三瀬城跡がある。
天照太神宮参道口 標高:409.8mMAP 4km以内の寺院検索
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宿バス停から少し峠側に戻った所に脇道があり、天照皇太神宮の石碑(安永4年(1775)の銘)がある。 その先に太神宮が鎮座している。 拝殿内には「神代氏の家紋」が掲げられており、祭壇の「本尊」が鎮座すべき所には武将の写真が祀られている。 この写真の方は神代氏の末裔の方のものか?
この状況からすると、この建物は神代氏に関連する施設のようである。 建物に向かって右手には坂道があり、そこより400mほど登った所に神代氏が一時期居館を構えたと言われる三瀬城跡がある。
宿(脚気地蔵参道口) 標高:405.8mMAP 4km以内の寺院検索
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「山中地蔵尊 十五丁」(文政6年(1823)癸未7月吉日 高木氏胤銘)。 (高木氏胤は関所役人であった。)
ここよりちょうど1.7km(≒15町)東方に道標通り、脚気地蔵がある。
天照太神宮の石塔 標高:405.9mMAP 4km以内の寺院検索
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街道はこの直前で右に90度カーブし、旧道に入る。 石塔はそこを少し進んだ道の曲がり角の突き当りにある。 「天照太神宮」(延享5戊辰(1748)銘)。 少し手前の天照太神宮と関連するもののようである。
街道はここで更に左に90度カーブして西進する。 最初のカーブの入口より、このカーブの先の両側では昔ながらの家並みがみられる。 昔の商家・宿場の跡のようにも見える。
上記2つのカーブは所謂「枡形構造(鍵曲がり)」の道ではなかろうか?
『三瀬村誌』によれば、江戸期はこの辺りは「宿村」と呼ばれていたという。 村名からして、戦国期以前にはなにがしかの「宿」があった集落かもしれないが、江戸期にここが宿駅であったという確証は無い。 三瀬峠より下ってくると現在集落が確認できるのは三瀬峠のすぐ下の三瀬村。次にこの地点である。 昔からかなりの人家があったことは想像できる。
中園の石塔群 標高:394.3mMAP 4km以内の寺院検索
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道端に3基ある。向かって右手の石塔には「馬頭観音」の文字が刻印されている。 中央の石塔には絵が描かれているようであるが、判然としない。
街道の向かい側の杉林に中には観音堂がある。
杉神社・孫太郎観音堂 標高:394.4mMAP 4km以内の寺院検索
街道右手の杉林の中には杉神社鎮座。 左手には孫太郎観音堂がある。
伝照寺 標高:390.5mMAP 4km以内の寺院検索
街道左手には伝照寺。 長楽山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。
柚木猿田彦神社 標高:310.2mMAP 4km以内の寺院検索
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柚木猿田彦神社は街道より石段を降りた所にある。 拝殿内には、御神体の他、弘法大師像・金色の観音像と思しき仏像(2体)安置されている。
街道脇には清流がながれ、せせらぎの音が絶えない。
松瀬の旧道口 標高:274.1mMAP 4km以内の寺院検索
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旧道口には自動車進入禁止の古びた道路標識がある。
ここから先、少し前進してみたが、道は舗装された跡は見受けられるが、倒木等で単独歩行は困難。 前進を断念。この道は次の石の祠脇まで続いているようである。
ここで旧道に入らず、この先の国道263号線を渡った所に菩薩像が安置された祠がある。
石の祠 標高:210.3mMAP 4km以内の寺院検索
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ここが旧道出口である。 石の祠は石段を登った所にある。巨岩を背にしてひっそりと立っている。
馬頭観音 標高:131.1mMAP 4km以内の寺院検索
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馬頭観音像は崖の中腹に鎮座。道路工事の為にこの高い場所に移動されたのであろう。 観音様の前にはちゃんと石段(かなり危ないが)が設置されている。
井手大師堂 標高:87.1mMAP 4km以内の寺院検索
井手大師堂は、近年ここに移築されたものである。
三反田の恵比寿像 標高:67.9mMAP 4km以内の寺院検索
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恵比寿像は胸から上が欠落している。
[メモ]三反田交差点より県道209号線を150mほど西進した所に神社(八坂神社)がある。 この付近に代官所があったという(参考:[W]大和町松梅)。 『大和町史』 p242 5.高札と伝馬 ○高札の項に三反田宿には高札場があり、その基礎石垣高5尺(1.5m)、長10尺(3m)との記事あり。その場所は比定できていないという。伝馬も行われていたという。
地蔵橋 標高:65.9mMAP 4km以内の寺院検索
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地蔵橋は清流名尾川に架けられている石橋である。
藩政期にこの橋はあったかどうかはわからないが、鉄骨は使わず石のみで組み上がっているようである。 名のある職人の手によるもののようである。 川はこの付近はちょっとした淵となっている。 川底・岸は大きな岩盤となっている。
この橋を渡ってすぐ左手には腹切り地蔵がある。
弁財天 標高:58.9mMAP 4km以内の寺院検索
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弁財天の拝殿裏手の巨大な石祠に「天明七(1787)丁未四月上巳日 真手山健福寺法師姉実識」と銘あり。 詳細は弁財天参照のこと。
このあたりは、右手に嘉瀬川、左手は山を見て進む。
福王寺 標高:51.2mMAP 4km以内の寺院検索
福王寺は法蓮山と号し、華厳宗の寺院である。
梅野の観音堂(厳島社) 標高:43.1mMAP 4km以内の寺院検索
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梅野の観音堂は厳島社の境内にある。
梅野の小堂とえびす像 標高:42mMAP 4km以内の寺院検索
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小堂は民家の倉庫と思しき中にある。 堂内には弘法大師・薬師如来(と思われる)・尊名不詳の石仏が安置されている。
小堂の街道を挟んだ所には、えびす像が鎮座している。 これは、新しい尊像のようである。
梅野の磨崖碑 標高:24.4mMAP 4km以内の寺院検索
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梅野の磨崖碑は延宝2年(1674)に作られたとみられる。 磨崖碑前の街道車の往来が激しい。見通しの悪いカーブにあり交通事故には十分ご注意を。
印鑰神社 標高:13.6mMAP 4km以内の寺院検索
横尾邸宅亭(尼寺宿) 標高:13mMAP 4km以内の寺院検索
横尾邸 佐賀市[佐賀県]参照。
『太閤道伝説を歩く』によれば、近世では高札場があり、その西側を流れる嘉瀬川の渡船場でもあったという。 西側にかかる「名護屋橋」は、文禄の役(1592-1593)のおり、秀吉が名護屋城に向かうときに通ったと伝えられる。 このとき、大雨で嘉瀬川は増水し、渡河は困難をきわめた。 当時佐嘉を領していた鍋島直茂は秀吉を川の手前の尼寺宿でねぎらい、川に舟橋をかけて秀吉軍を渡したという。
作者は未だ訪れていないが、横尾邸があるという。 居蔵造の町家形式でつくられ、1階は真壁造であるが、2階は鼠漆喰の大壁で窓部には鉄扉が用いられている建物という。
駄市川原宿 標高:10.1mMAP 4km以内の寺院検索
JLogos | 駄市川原宿(近世) | 角川日本地名大辞典(旧地名編) > 佐賀県 > 大和町
備忘録
2010-06-30現在ルートの確定ができていません。 『筑前国続風土記巻之二十二』の飯場・水無の項を備忘録として記載。
○飯場村
飯場は早良郡金武より一里半長坂を越行、深谷に在る村也。 又當郡河原村より飯場へ越える道有。其間三十二間有。 其峠を、むしぶくと云う。此村は谷の中狭くして田畠少し。 村民毎日薪芒を福岡に持出て賣る。此谷の下の入口 は早良郡内野、其上は石竃、其上は曲淵、其上は此村也。 下の三村は早良郡也。 飯場も同じ谷の上にあれ共、怡土郡に属せり。此村は曲淵の少上に在。 飯場村の前なる谷水は、水無より出る谷水に非ず。飯場の三町下、曲淵の 上に西南より流出る谷川有。是水無より出る川也。其川上八町に野河内村有。 是飯場の枝村也。是又地高し。其西半里餘を上りて水無有。其間道けはし。 水の流れは急流にて瀧多し。水無の方甚高ければ也。此村より肥前の境迄一里、 肥前の三瀬へ三里有。佐賀へ行く道なり。
○水無
飯場の枝村、野河内より半里餘上に在、石竃、曲淵の谷の上也。 野河内も飯場より上り行て地高し。野河内より上は、又漸高き坂を登り行。 其間左に谷側有。瀧多し。又井原村の南の高山を越て水無に行。是は谷筋には 非ず。井原山と水無とは高山を隔て別谷也。水無の南の谷中に在。谷水も井原山 の方へは流れず、曲淵も至て早良川に入る。深山幽谷の内にて谷内廣からず。 昔は人家も田畠もなし。近年民家三家でき、田畠を作る、飯場村より一里許有。 飯場村は早良の奥に在て、其地いと高し。水無は飯場より又甚高し。 冬春甚寒く、夏蚊なり。地肥て草木うるはし。奇木異草多し。 四方の村里に各一里餘有。皆嶮路也。民家の上三町許の間、此谷水半月は甚水少し。 久旱の時も水なし。故に水無と云。かやうの所他國にも是有 和州吉野の奥、音無川も亦然り。水無よりも南の山は筑前肥前の堺也。嶺迄十餘町有。 其西に猶十餘町行ば、うなきれと云所有。肥前の境也。昔原田了榮と龍造寺隆信の 臣神代氏と合戦せし所也。又童瀧と云瀧有。高六間許、其上に兄の瀧有。高十間許有。
『筑前国続風土記拾遺』巻之47 怡土郡の項を記載する。
飯場村(本編に詳なり。)
民居は本村 口ノ原 下飯場 野河内等にあり。 此村むかしハ井原村の内にて本部の東南の隅に位して山を隔て、早良郡曲淵村の谷上に居れり。 深山窮谷なり。 田圃僅に10町6反あり。 金武村より龍嶺を越此村(1里12町)に来る。 肥前國神崎郡三瀬宿に通路す。 その間杖立嶺を以て筑前との境とす。 国境小名4所あり。 杖立嶺(文政元年(1818)11月疆石新に立つ。此所飯場村よりハ1里に近し。道の東は曲淵村に属す。) 十ヵ谷(本編にナカ谷に作ハ假字の誤也。) 平口谷 毛鳥等なり。
○渓流2流あり。杖立峠より出る谷水ハ怡土郡早良両郡の境を流て、野河内の下にて水無川にあひ、 曲淵村に落つ。 又口ノ原より出る谷水は本村の前を過て、同く曲淵村に出て本川にいる。 是早良川なり。