周船寺[唐津街道] (旧:筑前国怡土郡周船寺村 現:福岡市西区周船寺)
概要
周船寺は今宿-前原の間にある場所である。宿場などはなかったようである。
周船寺の名の由来は下に引用する『筑前国続風土記拾遺』巻之46 怡土郡 上 周船寺村に記載されている。
民居は本村 新屋敷2所 官道の左右にあり。 此村名古へ太宰府有し時、主船司を置て官船を爰に繋きしより出たる名なるへし。 主船司のことは延喜式に見えたり。
隣村飯氏村の内乾[1]方當村に境へる田宇に船町と云所あり。是又主船司に縁あり。考ふべし。
此村の境内すべて昔の入海の跡なり。(本編に雷山の古文書には主船司と書りと見えたり。即是也。 但し今は此文書同山にはなし。又長禄2年(1458)に大内教弘より深川に輿へし書には、怡土郡周船寺と有。是は後のことなるへし。) (後略)
ここでは、周船寺より次の前原宿の手前までを記載する。
丸隈山古墳 標高:12.4mMAP 4km以内の寺院検索
街道はJR筑肥線の山側を通る。丸隈山古墳のすぐ先には竜松寺がある。
丸隈山古墳の説明については、同古墳入り口の案内板の内容をそのまま記す。
国指定史跡 丸隈山古墳
江戸時代の初めに発見されたこの古墳は、5世紀前半に築かれた前方後円墳で、後円部が三段に 、前方部が二段(一部は三段)につくられ、各段の斜面に葺石を敷き、テラス部に 埴輪をならべています。埴輪には円筒のほか朝顔型・盾・水鳥などの形象埴輪があります。
後円部の中央には、初期の横穴式石室があり、石室の中に中央の壁を共有する二基並列の組合式箱式石棺が あります。その中には男性人骨と鏡二面(仿製二神二獣鏡, 仿製六獣鏡)、巴形銅器、玉類(勾玉・ 管玉・小玉)、刀、剣、鉄鏃[3]の副葬品 [4]が残っていたことから、 この地域を代表する首長の墓と思われます。(昭和62年3月 福岡市教育委員会)」
妙正寺・竜松寺 標高:11.1mMAP 4km以内の寺院検索
妙正寺は響流山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。天文5年(1536)の開基。元はやや南側にあったが昭和60年にこの地に移ってきた。 丸隈山古墳の出土品(剣や鏡など)を所蔵しており、住職の許可があれば、 見学させていただけるという。参道口は竜松寺の西隣にある。
竜松寺は泉福山と号し臨済宗妙心寺派の寺院である。 波多江にあったが明治(1868-1912)の終わり頃この地に移って来た。
金剛橋 標高:8.6mMAP 4km以内の寺院検索
金剛橋は周船寺川に架けられた橋である。
伊覩神社 標高:7.6mMAP 4km以内の寺院検索
伊覩神社は『筑前國続風土記附録』巻之41 怡土郡 上 周船寺村の項に「松ノ木天神社」という名で記事がある。 伊覩神社 福岡県福岡市西区周船寺 : 空 sora そらによれば、昔は「主船司神社」とも呼ばれたようだ。
鳥居には天保12年辛丑(1841)5月吉日の銘がある。
ここから、数100mの街道の両側は商店街となっている。道幅も狭い。 多少昔(昭和)の風情を味わうことができる。
高田神社 標高:9.3mMAP 4km以内の寺院検索
『筑前國続風土記附録』巻之45 志摩郡 下 高田村の項に能徳十六天神社として記事がある。
福岡神社参拝帳によれば、 元は能徳という所に鎮座。宝永元年(1704)現在地に遷座。大正3年(1914)あるいは大正12年(1923)是永神社と合祀され高田神社となったようだ。
高田神社は唐津街道より、前原宿に向かって右に入った所にある。 街道は、写真左で信号機のある国道202号線に沿って右から左に唐津に向かって進む。
平等寺 標高:7.7mMAP 4km以内の寺院検索
ここまで国道202号線に沿ってを西に向かって走っていた街道はこの手前で次の前原宿に向かって急に直角に右折する。
そこには、専徳寺と平等寺が伽藍を構えている。 唐津に向かった旅人たちがこの先の安全をここで祈願したのではなかろうか?
平等寺は眞清水山と号し、延暦14年(795)の創建。昔は境内が方一町ある巨刹であったが現在は無住となっている。 専徳寺は法潤山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。 慶長16年(1611)の開山。平等寺の納経所も兼ねている。
浦志八幡宮 標高:7.1mMAP 4km以内の寺院検索
『筑前國続風土記附録』巻之45 志摩郡 下 浦志村に「八幡宮」として記事がある。 「産神也。応神天皇を祭れリ。鎮座の年歴詳ならす」とある。
街道に面した鳥居の足の1/3ほどが地中に埋まっている。理由は定かでないがちょっと目立つ。
浦志八幡宮を過ぎると街道が喪失部分があり迂回が必要。その先、しばらく平坦な街道を西に進むと次の前原宿である。