日田街道久留米城路
概要
『久留米市史』によれば、 「豊後街道」とも呼ばれるという。 日田代官のほか同所の幕吏によってよく利用されたが、代官所に用務のある諸藩士の往来もしばしばあったという。
この街道は久留米城下から府中宿を通り、山川町追分で「中道」と「山辺道」に分岐して日田へ向かう。
久留米城下から山川町追分までの経路は下記の通りである。
久留米城下府中宿
(この間薩摩街道と同じ経路)
府中北追分
山川町追分
山辺道の経路は下記の通りである。
山川町追分草野宿
吉井宿
日田
吉井宿から先は、生葉郡山北村(現:浮羽郡浮羽町三春[1])の山坂越えで日田に入るものと、 生葉郡吉川村(現:浮羽町)で筑後川を渡り、筑前領杷木町[2]に入って日田に至るものとの2経路があったという。
石浦大橋について
久留米市立大橋小学校の南隣(久留米市大橋町合楽1082)にあるおおはし歴史公園内に「石浦大橋」なる石橋が復元されている。 案内板によれば、「豊後街道(豊後中道)が巨瀬川を越える地点に架けられていた」という。 歴史を感じさせる存在感のある石橋である。 この地点が現在の何処にあたるかは作者は知らない。 本ページに最下部に案内板の内容と写真を掲載する。
Links
地図
※地図中のマーカをクリックすると、その地点の詳細な案内へのリンクが表示されます。
より大きな地図(コントローラボタン付き)で地図を表示。石浦大橋
案内板の内容を下に記す。
久留米から田主丸町・吉井町へと向かう筑後川沿いを走る豊後街道(豊後中道)が巨瀬川を越える地点に元禄11年(1698)架けられた石造り桁橋です。
明和2年(1765)に大規模な改修が行われています。 明治初年(1868)、大正10年(1921)、昭和8年(1933)、昭和28年(1953)などに修理が行われて維持されてきました。 昭和50年に交通量の増大などから解体され、石材は善導寺に保存されていましたが、 地元の要望から平成10年に地域のシンボルとして「おおはし歴史公園」に復元されました。