吉井宿(よしい)[日田街道久留米城路] 旧:久留米領生葉郡長野村 現:うきは市吉井町YOSHII STATION

概要

  • 宝暦12年吉井の図(「祇園社はもと上町にあり、宝暦13年の上図にも見ることができる。しかし、寛延元年の大火で類焼し、宝暦13年石井、田代大庄屋の尽力でここに移された」) - 素盞嗚神社(旧祇園社)境内の案内板より引用
    宝暦12年吉井の図(「祇園社はもと上町にあり、宝暦13年の上図にも見ることができる。しかし、寛延元年の大火で類焼し、宝暦13年石井、田代大庄屋の尽力でここに移された」) - 素盞嗚神社(旧祇園社)境内の案内板より引用 
  • 中町の町並み
    中町の町並み 
  • 中町の町並み
    中町の町並み 

ここでは吉井宿から次の日田までのルートを掲載する予定である。 ここから日田へは2つのルートがあったようである。 即ち、筑後川を渡り日田街道福岡城路と合流するもの、筑後川南岸を東進し日田に入るもの。 本ルートの詳細は作者があまり理解していません。誤った情報も混入している恐れが十二分にあります。 これから詳細は調査して順次更新してゆく予定です。 本項の下に作者のメモを記します。

吉井宿の成立について、町中の案内板に非常にわかりやすく記載されているのでそのまま引用する。

かつて吉井町は田畑に水が無く穀物の収穫も少なく農民の飢えを見かねた5人の庄屋たちが久留米の有馬藩に筑後川から水を引き入れる工事の嘆願書を出しました。 この嘆願書には「これらの工事に掛かる費用は私共、五人の庄屋が全部持ち受け決してお上にはご迷惑をかけませぬ」と書かれていました。 寛文4年16641月11日工事が始まり長野村(吉井町)の入口には5人の「はりつけ台」が立てられ、 これを見た人々は「五人屋どんを殺すな」とばかりに老人、女、子供までがこの水路工事にかかり、 寛文4年16643月に人工の川(南新川)が完成しました。

川の新設工事の成功によりこの地方は有馬藩有数の穀倉地帯となりました。 南新川が田畑を潤すだけでなく唐臼(からうす)、水車が造られ精米、製粉、酒造、製麺、櫨蝋(はぜろう)、菜種油などの工業、商業の豊かな町造りの基盤となりました。

また寛文3年1663有馬藩下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の中心として吉井に宿駅が新設されました。 吉井の宿場町は豊富な穀物を地主商人などが商品化、 販売し莫大な冨を蓄え、 その後「分限者(ぶんげんしゃ)どん」の住居造りが始まりました。

寛延元年1748、文化12年1815、明治2年1869に大火に見舞われ「分限者どん」たちは冨を象徴する白壁土蔵の防火対策の住居を競って造りました。

明治、大正と繁栄を見せた白壁土蔵造りの吉井の町並みも第2次世界大戦の経済・社会の変動の中で失われていきましたが、 平成8年12月に福岡県で初めて(全国で44番目)国の重要伝統的建造物保存地区の選定を受け、修理修復が行われ保存されています。

右写真の『宝暦12年1762吉井の図』(ご注意:南が上です)によれば、町割りは西から、天神町・下町(本町?)・中町・上町・堀田町の5町の構成であったようである。 浄満寺の門前に木戸らしき印がみられる。

作者メモ

『田主丸町誌』によれば、ここから日田までのルートは、「溝尻」を通り、日田に行くとある。 この溝尻が何処なのか未確認。

『浮羽町誌』によれば、ここから日田へのルートは下記の通りと記されている。これは、筑後川を渡河せずに日田に入るルートのようである。

吉井から東に2里余で大野原の高原へ。 さらに1坂下り袋野、字(くじ)取場。

筑前國続風土記拾遺巻之21 上座郡(上) 池田村の項に筑後川を渡河して日田街道福岡城路と合流するポイントと思われる記事あり。

池田村

民居は本村下池田と云 上池田 上村 杷木等に在。 杷木は和名抄に載たる六郷の一也。 いま星丸・林田・穂坂・久喜宮を杷木ノ郷と云由本編に見ゆ。

村の南は筑後國生葉郡古川村に界ひ、 川中を以限とす。 杷木より古川に渡舟一艘あり。 筑後吉井驛より此所を渡り、杷木に来て道2に分る。 東は小石原を経て豊前國彦山に至り、東南は豊前國日田に通路す。 故に旅人の往来甚繁し。

ルート

西の木戸 → 六角堂 → 西厳寺 → 西の木戸近くの枡形 → 天神町口 → 本町の枡形 → 円応寺 → 打山洋服店前の恵比寿像 → 札の辻 → 中町信号付近 → 上町信号付近 → 浄満寺 → 東の木戸付近の枡形 → 堀田の井戸 → 熊鷹稲荷大明神 → 石祠 → 石塔 → 以下未稿

西の木戸 標高:32m MAP  4km以内の寺院検索

西の木戸 - 宿場内に向って撮影
西の木戸 - 宿場内に向って撮影 
カーブを曲がった所
カーブを曲がった所 
宿場外に向って撮影
宿場外に向って撮影 

この地点が宿場内の西の入口と判断した根拠は、町中で配布されている『吉井のまちめぐり案内』の図である。

民家の塀にはエノキと思われる大木が見られる。


六角堂 標高:32.4m MAP  4km以内の寺院検索

六角堂
六角堂 
内部の荘厳
内部の荘厳 
五重塔
五重塔 
石像
石像 

六角堂はこの地点から東側の狭い路地を入った所にある。 周囲は江戸末期の年代銘の多数の墓石がある墓地となっている。 内部は金色の観音様が安置されている。 数を数えていないが、三十三観音ではなかろうか?

六角堂前には石造五重塔・怖い様態の石像が観られる。


西厳寺 標高:30.6m MAP  4km以内の寺院検索

西厳寺少し手前(北側)の民家
西厳寺少し手前(北側)の民家 

西厳寺は法樹山と号し、真宗大谷派の寺院である。

少し手前の民家には赤い鳥居のお稲荷様が祀られている。


西の木戸近くの枡形 標高:32.9m MAP  4km以内の寺院検索

枡形構造 - 宿場内に向って撮影
枡形構造 - 宿場内に向って撮影 
枡形近くの商家
枡形近くの商家 

この地点が枡形と判断した根拠は、町中で配布されている『吉井のまちめぐり案内』の図である。

道路の拡張工事の為か、かなり緩やかなカーブとなっている。


天神町口 標高:31.9m MAP  4km以内の寺院検索

天神町口
天神町口 
天神町の町並(右手が田代本家の門) - 西の木戸に向って撮影
天神町の町並(右手が田代本家の門) - 西の木戸に向って撮影 
田代本家の門(あいにく工事の車が停車中)
田代本家の門(あいにく工事の車が停車中) 

この角を左に曲がると、天神町の通りとなる。 突き当りに田代本家のりっぱな門が観られる。


本町の枡形 標高:33.6m MAP  4km以内の寺院検索

①枡形(右手の大通りは国道210号線)
①枡形(右手の大通りは国道210号線) 
②枡形(右手の大通りは国道210号線)
②枡形(右手の大通りは国道210号線) 
③枡形
③枡形 
④枡形
④枡形 
⑤枡形(ここで国道210号線と合流する。正面に円応寺が見える)
⑤枡形(ここで国道210号線と合流する。正面に円応寺が見える) 
鳥越本家の門
鳥越本家の門 

街道は枡形の手前で国道210号線と分かれ、右・左と直角にカーブして再び国道210号線と合流する。 枡形を出ればそこは下町(本町?)である。

最初の右カーブの脇には「鳥越本家」の立派な門が観られる。


円応寺 標高:31.8m MAP  4km以内の寺院検索

円応寺の門前 - 参道口を背にして撮影
円応寺の門前 - 参道口を背にして撮影 
円応寺の門前(写真右手が参道口)
円応寺の門前(写真右手が参道口) 

本町の枡形を出ると、円応寺の門前である。 円応寺は大悲山と号し、真宗大谷派の寺院である。

『吉井町誌』によれば、円応寺の西側に藩主、幕府役人、藩役人の宿泊接待所である御茶屋があったという。 ここを基点に道程が計られた。 (「御茶屋より○○里、御茶屋より○○町」などと表記された。)


打山洋服店前の恵比寿像 標高:32.4m MAP  4km以内の寺院検索

恵比寿像
恵比寿像 
恵比寿像前の街道
恵比寿像前の街道 
恵比寿像前の街道
恵比寿像前の街道 

この恵比寿像はかなり古いもののようである。


札の辻信号 標高:31.4m MAP  4km以内の寺院検索

札の辻
札の辻 

実際の札の辻はこの東側の中町信号の所にあったようである。


札の辻(中町信号付近) 標高:32.5m MAP  4km以内の寺院検索

更新塔(北西面)
更新塔(北西面) 
更新塔(北面)「南 妹川 星野 道」
更新塔(北面)「南 妹川 星野 道」 
更新塔(北東面)「猿田彦大神」
更新塔(北東面)「猿田彦大神」 
更新塔(南東面)「文政元年」
更新塔(南東面)「文政元年」 
町並み
町並み 
町並み
町並み 
町並み
町並み 

庚申塔は商家の角に建っている。 脇の案内板の内容をそのまま記載する。

うきは市指定文化財 札の辻の庚申塔

古代中国では「人の体に住む三尸の虫が、庚申の夜、 天に登って天帝にその罪過を告げに行くことでその人の生命がちぢめられる。」 とする道教の教えがある。

その夜は眠らずに長寿を祈念する行為が、 日本では徹夜で酒食をとるなど庚申待ち行事(講)となり、 江戸時代には全国に庚申塔の造立が広まった。 塔の正面には道案内にかかわる猿田彦大神・悪霊を退散させる青面金剛とその使いの 三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)や、 ただ庚申と表すこともある。

ここの庚申塔には猿田彦大神と三猿が示され、 「南 妹川 星野 道」の道案内と文政元年1818銘が残る。 書は頼山陽のものと伝えられる。

昭和60年3月5日指定 うきは市教育委員会

庚申塔の表記どうり、この地点を基点とする県道718号吉井妹川(いもがわ)線は南下し、耳納の山を登り、うきは市妹川を通り星野に通じる道である。


上町信号付近 標高:33m MAP  4km以内の寺院検索

町並み
町並み 

みごとである。


浄満寺 標高:31.5m MAP  4km以内の寺院検索

門前の街道
門前の街道 

『宝暦12年1762吉井の図』によれば、浄満寺の門前に木戸らしき印がみられる。

浄満寺は高教山と号し浄土真宗東本願寺派の寺院である。 納骨堂上の鐘楼には寛永7年1630銘の梵鐘が掛けられているとのことである。


東の木戸付近の枡形 標高:32.3m MAP  4km以内の寺院検索

枡形入口
枡形入口 
曲がり角に立つカッパ
曲がり角に立つカッパ 

町中を東進してきた街道はここで右に90°カーブする。


堀田の井戸 標高:34m MAP  4km以内の寺院検索

①枡形2度目のカーブ
①枡形2度目のカーブ 
②枡形2度目のカーブ - 井戸を背にして撮影
②枡形2度目のカーブ - 井戸を背にして撮影 
井戸全景
井戸全景 
井戸の中
井戸の中 
井戸脇の恵比寿塔
井戸脇の恵比寿塔 
辻に立つカッパ
辻に立つカッパ 

この井戸の地点で2度目のカーブである。 井戸脇には恵比寿塔も建っている。 井戸脇の案内板の内容を抜粋する。

堀田(ほりた)の井戸

(前略) 往還と呼ばれた道路や、橋・溝・船着き場・駅馬・建場(たてば)・高札場・ 会所(かいしょ)・御茶屋・(かま)と云い慣わした大門、 それに井戸も町には必須のものでした。

この『堀田の井戸』も「岩井の井戸」と並んで、 吉井の名の起こりと云われる程の銘水。 近辺住民の生活用水は無論のこと、 遠来の旅人や行き交う牛馬にも差別なく喜ばれた井戸で、 古来枯れたことがないそうです。

またお参りしてきましたこの地は以前、吉井町の東の入口に当たった所で、 すぐ北側には開閉した大門が建っていました。 また井戸のすぐ脇を流れる水路は、 吉井の「走り井」のひとつ、 お陰で水勝手だけでなく、 火事まで減ったと重宝され、 いずれも長く人々に愛され親しまれて、 吉井の四季の情緒と風物詩を育んでくれた、 大切な先人の遺産です。

幕末の歌人大隈言道 吉井にて詠める歌

「いくはなるよしゐの里のはしり井の はしりてやまぬ水のすゞしさ」

うきは市教育委員会

ここの辻にもカッパが鎮座。


熊鷹稲荷大明神 標高:33.4m MAP  4km以内の寺院検索

熊鷹稲荷大明神
熊鷹稲荷大明神 
熊鷹稲荷大明神前の街道 - 堀田の井戸を背にして撮影
熊鷹稲荷大明神前の街道 - 堀田の井戸を背にして撮影 

この大明神の縁起は不詳。 この付近の道幅は約2間。 かなり狭い。


石祠 標高:32.9m MAP  4km以内の寺院検索

石祠
石祠 
石祠前の街道(先に耳納の山々が見える) - 日田に向って撮影
石祠前の街道(先に耳納の山々が見える) - 日田に向って撮影 

石祠の縁起については不詳。


石塔 標高:32.3m MAP  4km以内の寺院検索

石塔
石塔 
石塔の街道 - 日田に向って撮影
石塔の街道 - 日田に向って撮影 

この石塔の前面には文字か画像が刻まれているようであるが、判読不可。 縁起については不詳。