楠久津(くすくつ)[平戸街道御厨筋] 旧: 現:KUSUKUTSU SHORE

概要

「楠久」という地名は、朝鮮半島の三国時代以前にあった加羅国語が語源で、「ク」は大きい、「スク」は城、囲いを表す。 中世までは漢字をあてず仮名で記録されてきた。 漢字の「楠久」は当て字。

「楠久津」は新しく、津として使われるようになったのは、古いものは室町時代あたりで、松浦党が出入りした港だと推定されている。 嵯峨源氏から8代目源久が松浦地方に下向したのが、松浦党の始まり。楠久津ではないが、700年前には楠久城もあった(現在の太明山 本光寺の境内がその場所である)。 天正4年1576、松浦党は竜造寺隆信に滅ぼされるが、航海技術を持つ人々の存在という背景の中で佐賀藩は楠久津を重要視する。文書には、寛文13年1636佐賀藩の御舟屋が設置されたとある。江戸期の楠久津は、佐賀本藩の直轄領で、鍋島水軍の拠点であった。

江戸後期、アヘン戦争で景徳鎮の窯から輸出できなくなった為、伊万里焼は「バカ売れした。」という。 伊万里の方は海が浅かったため、伊万里から小舟で楠久津まで持ってきて本船に積み替えた。 また、石炭も大きくこの町の発展に寄与した。伊万里湾周辺、特に山代から産出された石炭は楠久津からも船出しされ、イギリスが買い求めた。

伊万里湾一帯の漁業権は楠久津が持っていたという。五島などでとれる鯛は、博多で高く売れ、生計を立てることができたが、幕末になると、忙しくなり漁ができない。 これでは、生活ができない。そこで今度は、あわびやなまこ、ふかのひれなどを干した俵物をつくって生活したらしい。 なので、江戸期において楠久津=漁村というより、いわば、半漁士族の村であった。

 楠久津の船団は人々が中世から脈々と持っていた高い操船技術も含めて明治政府へそっくり献上され、日本の近代化へ結びついていく。 (楠久津|学生レポート2009年度|しこ名調査|服部英雄 (HATTORI Hideo)のホームページより一部抜粋・加筆)

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ここでは、有田川の西岸の飛び石橋より、楠久を通り今福宿の手前までのルートを掲載する予定である。

ルート

山城町楠久上信号→竜王神社→善楽寺→文禄の役松浦家供養塔→人柱観音供養塔→今福一里塚→

山城町楠久上信号 標高:17mMAP  4km以内の寺院検索

ここより、本光寺の門前を通り賢海寺に至る道は楠久のメインストリートであったようである。


竜王神社 標高:3.9mMAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為未稿。


善楽寺 標高:3.8mMAP  4km以内の寺院検索

善楽寺は浄土真宗本願寺派の寺院である。


文禄の役松浦家供養塔 標高:5.9mMAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為未稿。


人柱観音供養塔 標高:6.5mMAP  4km以内の寺院検索

人柱観音供養塔


今福一里塚 標高:5.2mMAP  4km以内の寺院検索

位置が正確ではないかもしれない。