大津宿(おおづ)[豊後街道] 旧:熊本藩領合志郡 現:菊池郡大津町OOZU STATION

概要

札の辻(画像左手に地蔵堂がある)
札の辻(画像左手に地蔵堂がある) 
大津苦竹塔迫絵図(寛政年間(1789-1801)の大津宿の全体の姿を文化9年(1812)に描いた図。上が北。 -  苦竹年禰神社対面の御客屋門境内の案内板より抜粋)
大津苦竹塔迫絵図(寛政年間(1789-1801)の大津宿の全体の姿を文化9年(1812)に描いた図。上が北。 - 苦竹年禰神社対面の御客屋門境内の案内板より抜粋) 
JR肥前大津駅
JR肥前大津駅 

ここでは小津宿より内牧宿までの手前のルートについて記す。

江戸幕府が始まる前は大津日吉神社が鎮座する場所に合志一族が守る東嶽城があり、その周辺に人々が住み始めていた。これが大津宿の草造時代であったようだ。

江戸初期、熊本藩主は宿場町をつくるべく上井手(上井手川)開削に伴い、苦竹(にがたけ)(現大津中学校の南側)の村民を苦竹町(現在の菅原神社周辺)に移住させた。併せて、苦竹年禰神社(にがたけねぎじんじゃ)も寛永8年1631に現在の位置に遷座した。 こうして、上井手に沿った町並み(塘町筋)ができていったと言われている。

大津苦竹塔迫絵図を眺めてみれば、寛政の頃1789-1801には宿場の全体に渡って建物が立っていたことがわかる。

ルート

室簀戸口跡 → 西鶴甲斐神社 → 菅原神社 → 大願寺 → 苦竹年禰神社 → 光尊寺 → 大津宿高札場跡 → 大津手永会所跡 → 大津日吉神社・御茶屋跡 → 観音堂 → 日吉神社古宮 → 廣濟寺 → 簀戸口跡 → 5里木跡 → 6里木跡 → 二重峠の茶屋跡 → 石畳はじめ → 二重峠 → 二重峠石畳 → 二重観音 → 菅原神社 → 的石茶屋跡 → 隼鷹天満宮 → 教法寺 → 産神社 → 内牧宿

室簀戸口跡 標高:117.9m MAP  4km以内の寺院検索

藩主の通行前後の臨時関所の跡。(すだれ)は男竹、直径1寸5分(約4.5cm)の真竹で、高さ2間(約2.5m)に編んだ2枚を左右に立て簀戸守が警戒に当たった。(室簀戸口門跡 / 大津町ホームページより)

藩主一行の到着時は役人衆や住人が簀戸口外側の沿道で行列を出迎える「殿様拝み」をしたそうだ。(ぐんさん 物見遊山記:豊後街道を歩く 肥後大津宿より)

当「室簀戸口跡」の位置は、この場所と大津駅の南側の位置と2説ある。 後者は豊後街道のルートから大きく離れるので、ここでは前者を採用した。 この場所は未踏査の為、誤っているかもしれません。

「室」とは、この地にあった明治初期に苦竹村と塔迫村が合併して新しく作られた町名である。


西鶴甲斐神社 標高:118.6m MAP  4km以内の寺院検索

鎮座の年歴は不詳。六嘉の甲斐神社を勧請したもの。 足手荒神祠がある。

祭りのある3月15日には「初市(はついち)」が立ち、大津の春を告げる風物詩となっている。(以上 菅原神社参道口の案内板より)


菅原神社 標高:123.6m MAP  4km以内の寺院検索

菅原神社
菅原神社 
菅原神社参道口の豊後街道(前後方向) - 内牧宿に向って撮影
菅原神社参道口の豊後街道(前後方向) - 内牧宿に向って撮影 
菅原神社参道口(正面左手に地蔵堂が見える。左右方向は豊後街道)
菅原神社参道口(正面左手に地蔵堂が見える。左右方向は豊後街道) 
地蔵菩薩 - 地蔵堂内
地蔵菩薩 - 地蔵堂内 

文明4年1472に勧請されたもの。(参道口の案内板より)

参道口には地蔵堂がある。

ここより高札場の手前までの街道は塘町筋(とうまちすじ)といわれた。

水量豊かな上井手用水(かみいでようすい)(上井手川)に沿った道である。

(「塘」とは池・つつみ・土手の意味を持ち、上井手用水を開削した時の残土を積み上げて街道が作られたことに由来する。)


大願寺 標高:124.7m MAP  4km以内の寺院検索

本堂
本堂 
門前の眼鏡橋(流れる上井手用水は水量豊か)
門前の眼鏡橋(流れる上井手用水は水量豊か) 
門前の豊後街道 - 内牧宿に向って撮影
門前の豊後街道 - 内牧宿に向って撮影 
東側に参道口(大願寺鐘楼門前の石橋を渡って左手に円通庵の石段の上り口がある)
東側に参道口(大願寺鐘楼門前の石橋を渡って左手に円通庵の石段の上り口がある) 

大願寺は清流山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。慶長16年1611の創建。

西隣には円通庵(文明年間1469-1487創建。曹洞宗)もある。

街道は大願寺のまえで、上井手川に沿って右にカーブする。


苦竹年禰神社(にがたけとしねじんじゃ) 標高:124.9m MAP  4km以内の寺院検索

苦竹年禰神社全景(手前に水車がある)
苦竹年禰神社全景(手前に水車がある) 
苦竹年禰神社社殿
苦竹年禰神社社殿 
苦竹年禰神社脇の豊後街道(左手が苦竹年禰神社) - 石巻宿に向って撮影
苦竹年禰神社脇の豊後街道(左手が苦竹年禰神社) - 石巻宿に向って撮影 
街道沿いの仏堂
街道沿いの仏堂 
街道沿いの仏堂内
街道沿いの仏堂内 

室町初期1336-1573、鍛冶村の草分け、刀鍛冶・延寿源左衛門が阿蘇三の宮の末社を勧請し、天正1573-1592の頃までは、また鍛冶村の西に隣接した苦竹(にがたけ)村(現在の大津中学校の南側)があった。当社は元、苦竹・鍛冶両村の氏神であった。

熊本藩主は宿場町をつくるべく、上井手開削に伴い、苦竹の村民を苦竹町(現在の菅原神社周辺)に移住させた。併せて、苦竹年禰神社も寛永8年1631に現在の位置に遷座した。 こうして、上井手に沿った町並みができていったと言われている。

参考:苦竹年禰神社と上井手公園(大津町) | オールクマモト

当社境内には、上井手の水流を利用していると思しき大きな水車が回っている。

当社の街道を挟んだ所には、大津手永会所跡に付設されていた御客屋の門が移築されている。


光尊寺 標高:129m MAP  4km以内の寺院検索

門前の豊後街道(右手に綿屋菓舗の看板が見える) - 内牧宿に向って撮影
門前の豊後街道(右手に綿屋菓舗の看板が見える) - 内牧宿に向って撮影 
光尊寺橋
光尊寺橋 
門前の商家 - 内牧宿に向って撮影
門前の商家 - 内牧宿に向って撮影 
門前の地蔵堂
門前の地蔵堂 
光尊寺本堂
光尊寺本堂 
光尊寺山門
光尊寺山門 

光尊寺は西嶽山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。承応2年1653裕圓による創建。

門前には文化12年1815に架けられた眼鏡橋「光尊寺橋」がある。


大津宿高札場跡 標高:128.6m MAP  4km以内の寺院検索

札の辻(画像左手に地蔵堂がある)
札の辻(画像左手に地蔵堂がある) 
地蔵堂 - 鶴口橋上
地蔵堂 - 鶴口橋上 
地蔵堂拡大 - 鶴口橋上
地蔵堂拡大 - 鶴口橋上 

当時はここに7枚の高札が建てられていたという。(案内板より)

街道がここで左に直角にカーブする。ここより内牧宿まではきつい上り坂となる。

ここには2つの地蔵堂がある。

鶴口橋上の地蔵堂は天明の大飢饉1782-1788と疫病で亡くなった幼い霊をなぐさめるために建てられた。 毎年8月23日・24日両日、「大津地蔵祭」が開かれ夜店などが出て賑わっている。(地蔵堂脇の案内板より)


大津手永会所跡 標高:132.2m MAP  4km以内の寺院検索

大津手永会所跡前の街道(右手矢印先に石碑がある) - 内牧宿に向って撮影
大津手永会所跡前の街道(右手矢印先に石碑がある) - 内牧宿に向って撮影 
石碑(「手永會」の文字が見える)
石碑(「手永會」の文字が見える) 
御客屋門(現在は苦竹年禰神社の南側街道沿いに移設されている)
御客屋門(現在は苦竹年禰神社の南側街道沿いに移設されている) 

手永(てなが)」とは、細川家(豊前小倉藩主、のち肥後熊本藩主)がその領地に導入した行政区画。細川家が江戸初期に小倉藩領に導入し、寛永9年1632に熊本に転封されると熊本藩領にも導入された。「領主が手いっぱいに治めうる区域」の意。(手永 - Wikipedia より)

この南側に付設されていた御客屋の門が苦竹年禰神社の南側街道沿いに移設されている。 屋根瓦には九曜の門があしらわれており細川藩の施設であった面影をのこしている。


大津日吉神社・御茶屋跡 標高:134.8m MAP  4km以内の寺院検索

日吉神社鳥居(向って左手の石灯籠の裏手に「大津御茶屋跡」の案内板がある)
日吉神社鳥居(向って左手の石灯籠の裏手に「大津御茶屋跡」の案内板がある) 
門前の豊後街道 - 内牧宿に向って撮影
門前の豊後街道 - 内牧宿に向って撮影 

大津日吉神社の由緒については、ここより200m足らず街道沿いに登った所の日吉神社古宮の項を参照の事。 元は現在の日吉神社古宮の位置にあったが、大正11年1922火災に罹り現在の地に遷座してきた。(同社のHPより)

同社の敷地内からは大津の町が一望でき、「日吉つつじ」としてつつじの名所でもある。 (大津町発行のパンフレットより)

この付近に熊本藩主が参勤交代の時などに宿泊する御茶屋があった。 瓦葺の堂々たる建物で、約1000㎡の敷地内に、本屋574㎡、別棟250㎡。29部屋があった。 通常は「御茶屋番」と呼ばれる役人が近村の人々に仕事を割り振って管理していた。(案内板より)


観音堂 標高:137.2m MAP  4km以内の寺院検索

観音堂
観音堂 
観音菩薩の頭部(お化粧しておられる)
観音菩薩の頭部(お化粧しておられる) 
観音堂前の街道(観音堂は左手) - 内牧宿に向って撮影
観音堂前の街道(観音堂は左手) - 内牧宿に向って撮影 

観音堂は間口半間ほど。観音様はお化粧をしておられる。

このサイズの観音堂・地蔵堂は小津の町中至る所にみられる。


日吉神社古宮 標高:141.2m MAP  4km以内の寺院検索

日吉神社古宮参道口
日吉神社古宮参道口 
参道口前の街道 - 内牧宿に向って撮影
参道口前の街道 - 内牧宿に向って撮影 

現小津日吉神社の跡地。

今から450年程前、合志一族が守る東嶽城(現大津日吉神社)の下に人々が住み始めた頃、この地に(むくのき)天神が地域の人々の氏神として祀られていた。 正保元年1644藩主細川氏がこの地に社殿を設け、近江国の山王宮より心霊を勧請し、天神と合祀した。その後、道中・町内の安全を祈る大津宿の総氏神として賑わった。

大正11年1922火災に罹り社殿が焼失、東嶽城(現大津日吉神社)の地に遷座された。


廣濟寺 標高:147.8m MAP  4km以内の寺院検索

本堂
本堂 
門前の豊後街道(左手が廣濟寺) - 内牧宿に向って撮影
門前の豊後街道(左手が廣濟寺) - 内牧宿に向って撮影 

廣濟寺は大津山と号し日蓮宗の寺院である。

境内に「第7代の晋山式」記念碑(昭和62年1987銘)がある。


簀戸口跡 標高:159.4m MAP  4km以内の寺院検索

簀戸口跡(標柱は矢印の先)
簀戸口跡(標柱は矢印の先) 
五里木公民館
五里木公民館 

藩主の通行前後の臨時関所の跡。(すだれ)は男竹、直径1寸5分(約4.5cm)の真竹で、高さ2間(約2.5m)に編んだ2枚を左右に立て簀戸守が警戒に当たった。(標柱に記された解説より)

現在は街道脇に標柱が立っているだけで、昔の遺構などは確認できない。 標柱の後の敷地は五里木公民館となっている。


5里木跡 標高:173.9m MAP  4km以内の寺院検索

石碑拡大
石碑拡大 
五里木跡石碑前の街道 - 内牧宿に向って撮影
五里木跡石碑前の街道 - 内牧宿に向って撮影 
石碑(遠景)
石碑(遠景) 

5里木の石碑は林の中にひっそりと立っている。

ここで「5里(≒20km)」とは熊本城札の辻からの距離。

往時はここから東には杉並木があったとされるが、今はその面影は無い。(石碑より)


6里木跡 標高:309.6m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。「肥後街道六里木の里」という店あり。


二重峠の茶屋跡 標高:533.6m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。7里木跡がこの付近にあるはず。


石畳はじめ 標高:693.1m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。


二重峠 標高:686.9m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。


二重峠石畳 標高:684m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。


二重観音 標高:495.7m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。


菅原神社 標高:475.6m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。


的石茶屋跡 標高:477.6m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。8里木がこの付近にあるはず。


隼鷹天満宮 標高:476.9m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。


教法寺 標高:486.5m MAP  4km以内の寺院検索

教法寺は龍石山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。


産神社 標高:483.5m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。9里木がこの少し先にあるはず。