秋月城下(あきづき)[秋月街道] 旧:筑前国夜須郡秋月 現:朝倉市秋月AKIZUKI

概要

  • 眼鏡橋
    眼鏡橋 
  • 3つの峠道(『秋月街道をゆく』より引用)
    3つの峠道(『秋月街道をゆく』より引用) 
  • 秋月城下の図
    秋月城下の図
    『筑前名所図会』

秋月街道をゆく』によれば、 この地は戦国末期、秋月氏の城下町として栄えていたという。 その後秀吉により秋月氏は日向に転封となり、衰退していった。 元和9年1623黒田長興の分封後再び城下町としての体裁が整えられたという。

『筑前國續風土記』巻之10 夜須郡の項に町の様子を描いた部分がみられる。 一部引用する。 ちなみに『風土記』の編者貝原益軒の妻貝原東軒は秋月藩士の娘である。

(前略) 此里山林景色うるはしく、薪水の便よく、材木乏しからず。 且山中の土産多き事、國中第一也。 海味は、博多並豊前の蓑島、筑後の柳川より来る。 谷ふかき山ふところなれど、 山嵐(さんらん)瘴気(しゃうき)深くして、(しつ)にあたるうれひあり。 且寒気もはげし。 此所に出口4あり。 北は八丁に、西は長谷山口、南は湯の浦に、東は野鳥口なり(中略)

秋月の土産此内江川より出るもの多し。 木煉柿味能して京畿の産に似たり。 大栗丹波の産に似たり。 椎實 楊枝まつ葉なり。川より出る。 江茶長谷山秋月江川に多し。 黄楊木(つげき)古処山に産す。 薯蕷(やまいも)長大にして味よし。且ほして山藥にすべし。江川長野川底よりいず。 ところ出所同上。 獨生(うど)出所同上。同上。多し。 葛粉江川に多し。又嘉摩郡の桑野よりも来る。江川に産す。 菎蒻(こんにゃく)江川山中に多くいふ。秋月にて製するは、其形他所の製より甚大なり。江川に製するは黒く大也。 藤大蓼(またゝび)(たけ) 舞覃(まふたけ) 椎覃(しゐたけ) (もとゆひ)他所よりすぐれてよし。故に甚多くうる。土産門に詳記す。 ()の柄上秋月江川より出。 ()持丸村及近村にて多く作る。 白砂古処山より出づ。盆山に用ゆ備後砂の如し。 小鱒(えのは)江川にあり。 (あゆ)他所の産より味よし。國中第一。 鰷腸醢(うるか)味よし。

上で頻出する「江川」とは、秋月城下を流れる野鳥川の事と思われる。 上の土産物は現在でも秋月の界隈で売っていそうなものばかりである。

ここでは、秋月城下から次の野町までのルートを記載する。 この地域はお寺が集中している、 それぞれの地点の表題横のボタン「4km以内の寺院検索」をクリックしてみて下さい。 一日で20ヶ寺近いお寺を一気にお参りすることができます。 現在、本ルートはほぼ全てGoogle Street Viewが有効です。

ルート

番所橋 → 杉の馬場 → 札の辻 → 眼鏡橋 → 夫婦石集落の追分石 → 明元寺門前 → 老松神社 → 一里塚 → 大己貴神社 → 浄光寺 → 弥永の道標(さいふ道) → 高橋 → 矢野酒店前の四角 → 日田街道との追分 → 高野神社 → 野町宿

番所橋 標高:121.9m MAP  4km以内の寺院検索

番所橋全景
番所橋全景 
番所橋とその先の街道
番所橋とその先の街道 
橋脚(みかげ石製)
橋脚(みかげ石製) 
松田常憲生家
松田常憲生家 

番所橋より少し上流の街道脇の陶板製の案内板によれば、 番所は、この橋の手前(川の上流側)にあったようである。 門を設け、見張りを置き、夜はその門を閉め小戸からのみに出入りを制限したという。

同案内板によれば、この橋の東側の石垣の上の屋敷は歌人松田常憲の生家であるという。 建物は荒れ果て、廃屋となっているようである。

橋脚部分は太めのみかげ石製。かなり存在感のある橋である。 いよいよ、ここからが秋月城下である。 難所八丁峠を越えて来た旅人達は、番所の門をくぐりほっと一息ついたのではなかろうか?


杉の馬場 標高:114.5m MAP  4km以内の寺院検索

杉の馬場入口前の街道 - 野町宿に向って撮影
杉の馬場入口前の街道 - 野町宿に向って撮影 
杉の馬場入口付近
杉の馬場入口付近 
杉の馬場入口付近の茶店
杉の馬場入口付近の茶店 
秋月城長屋門(裏門)
秋月城長屋門(裏門) 
秋月城長黒門(大手門)
秋月城長黒門(大手門) 
秋月城長黒門(大手門)
秋月城長黒門(大手門) 
瓦坂(この上に黒門はあったという)
瓦坂(この上に黒門はあったという) 
杉の馬場内の露店(山の幸でいっぱいである)
杉の馬場内の露店(山の幸でいっぱいである) 

野町宿に向って左手の長い一本道(杉の馬場)の両サイドが秋月城・武家屋敷であったようである。 夫々の遺跡の脇には陶板製の丁寧な案内板が設置されている。 それぞれの遺跡の説明はここでは省く。 この通りは桜の時期と秋の紅葉の時期に訪れるのが一番良い。 ただ、観光客でごった返すのでご注意。

この馬場の中間地点あたりに露店があり、ひやかしていたらお店の方(かなり年配のご婦人)と しばし歓談できた。 我が家の二匹の猫の為「マタタビ」を購入。 よく聞けば、これは煎じて人間が飲むものとのこと。 お店の方に「旅に出て疲れた旅人がこれを煎じて飲んで元気を取り戻して"また旅に出よう"ということになる」のでその名が付けられたと伺った。 どうやら精力剤のようである。 また一つ勉強になった。 ちなみに、ネコにはその出し殻を与えれば良いとのことである。

その露店には山の幸がかなりの種類販売されている。 許可を得て全て撮影した。 その写真から、売られている山の幸を下に列挙する。 全て手作りとのこと。 本ページの概要の項の『風土記』項と対比されると面白い。かも?

またたび茶・シソの葉茶・くわの葉茶・くれそん茶・とうもろこしの皮・びわの葉茶・よもぎ茶・すぎな茶・ねずみもち茶・ 黒豆・大豆・干ししいたけ・ゆずの皮・こんにゃく・すりにんにく・切り干し大根・シソの実の塩漬・もろへいや・にがうり・ 梅干し・さんしょうの醤油漬け・にんにく味噌・柚味噌・ふきのとう味噌・いもがら(ズイキ)・柚こしょう・大根葉・人参葉・栗・ 白なすび・青竹の足ふみ。


札の辻 標高:107.7m MAP  4km以内の寺院検索

側のバス停の標識
側のバス停の標識 
札の辻 - 野町宿に向って撮影
札の辻 - 野町宿に向って撮影 
札の辻(左右方向が街道)
札の辻(左右方向が街道) 
札の辻近くの町並
札の辻近くの町並 

ここより右(西)に曲がりその先を進むと新八丁峠道となる。 この道の途中、新八丁峠道と分岐して、白坂峠を越え桂川町(飯塚宿と内野宿の中間地点)あたりで長崎街道と接続するルートもあったようである。

札の辻の少し手前には、宿場ではおなじみの枡形構造の街道がみられる。 お見逃しなきよう。 この周辺には古い町並みがみられる。

ここには札の辻を示す遺構・案内板などは何もない。 『秋月街道をゆく 』によると、この場所が確かに「札の辻」であるはずである。 しかし、現地で配布されている地図にはその表示が無い。 宿場の重要地点であるはずなのであるが。。。 この場所が確かに「札の辻」かどうか少し不安になってくる。


眼鏡橋 標高:91.8m MAP  4km以内の寺院検索

眼鏡橋 - 野町宿に向って撮影
眼鏡橋 - 野町宿に向って撮影 
眼鏡橋
眼鏡橋 

橋脇の陶板製の案内板によれば、文化7年1810に架けられたもの。 花崗岩製。 この橋が架けられる前は板橋で、野鳥川の氾濫で度々流されることがあったという。

長崎警備に赴いた秋月藩士は、長崎の中島川に架かる眼鏡橋を見て「秋月にも」と皆思っていた。 家老職宮崎織部舒安(みやざおりべのぶやす)がこれに裁断を下し、 長崎の石工に頼み着工。 一度は竣工間際に崩壊する失敗もあったという。 橋の名は初め「長崎橋」と言われていたという。


夫婦石(めおといし)集落の追分石 標高:74m MAP  4km以内の寺院検索

追分石
追分石 
追分石(写真中央) - 野町宿に向って撮影
追分石(写真中央) - 野町宿に向って撮影 
夫婦石 - 『筑前國続風土記附録』挿絵
夫婦石 - 『筑前國続風土記附録』挿絵 
秋月城下の図(図の左下隅に夫婦石が描かれている)
秋月城下の図(図の左下隅に夫婦石が描かれている)
『筑前名所図会』

「是従右さいふ・まつさき 左あまき・ほんかう」。 街道は右側の道を進む。

参考:
正見行脚:「女男石」は拡張道路の下に埋没するのか(朝倉市)
正見行脚:消滅する(?)…「女男石」を撮ってきた(朝倉市秋月)


明元寺門前 標高:72.8m MAP  4km以内の寺院検索

長い参道
長い参道 
参道口前の街道 - 野町宿に向って撮影
参道口前の街道 - 野町宿に向って撮影 

明元寺は野町宿に向って右手に伽藍を構えている。 浄土真宗本願寺派の寺院で、月照山と号す。


老松神社 標高:62.3m MAP  4km以内の寺院検索

全景
全景 
老松神社前の街道(右手が老松神社) - 野町宿に向って撮影
老松神社前の街道(右手が老松神社) - 野町宿に向って撮影 

境内にはクスノキの大木をはじめ、イロハモミジ・アラカシ・ネズミモチ等の多数の樹木があり、見事な鎮守の森を形成している。 この森は、朝倉市の保存樹林に指定されているという。

鳥居脇の案内板によれば、神功皇后・秋月種実・小早川隆景・太宰府天満宮などに縁のある神社である。 その縁起は_老松神社(福岡県朝倉市) - 九州神社紀行-ブログをご覧ください


一里塚 標高:58.2m MAP  4km以内の寺院検索

一里塚前の街道(カーブミラーの根本) - 野町宿に向って撮影
一里塚前の街道(カーブミラーの根本) - 野町宿に向って撮影 
石碑
石碑 

一里塚跡には、今は僅かに小さな石碑を残すのみとなっている。 石碑脇のぶどう販売小屋の方の話によれば、昔はこのあたりの道は今よりかなり狭く、 この石碑の位置には巨大な松の木が生えていたという。(昭和30年に枯死) その写真は、ここから少し下った公民館に掲げられているとのことである。

ここより、50m程戻った所には案内板があり、その位置にも巨大な松の木があったという。 その案内板によると、この松は「夜泣き松」と呼ばれており、 この松の皮を剥いで寝床の下に敷いて寝ると夜泣きが治ると言われたという。


大己貴(おおなむち)神社 標高:53.8m MAP  4km以内の寺院検索

一の鳥居
一の鳥居 
門前の街道 - 野町宿に向って撮影
門前の街道 - 野町宿に向って撮影 
街道左手の大豆畑
街道左手の大豆畑 
弥永神社(当社の図と思われる)
弥永神社(当社の図と思われる)
『筑前名所図会』

日本最古の神社の一つと数えられ、地元では「おんがさま」と呼ばれて崇敬されているという。 本殿は朱色がベースで、極彩色の飾りが見事である。 境内には嘉永7年1854銘の手水盤、天保5年1834銘の賽銭箱などがみられる。 太宰府天満宮とも縁のある神社のようである。

このあたりの街道の左手は広大な大豆畑となっている。

当神社の由緒・写真などは、多数のサイトに掲載されている。 キーワード「大己貴神社」で検索してお読み下さい。


浄光寺 標高:47.9m MAP  4km以内の寺院検索

浄光寺は響流山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。


弥永(いやなが)の道標(さいふ道) 標高:47.9m MAP  4km以内の寺院検索

道標
道標 
道標前の街道
道標前の街道 
分岐点(左手が秋月街道、右手が宰府に至る道)
分岐点(左手が秋月街道、右手が宰府に至る道) 

「右はかた・さいふ道 左くるめ・松ざき道」

ここは次の野町宿に向って進む秋月街道と、太宰府天満宮方面に向かう道の分岐点であったようである。 太宰府方面への道(西方向)も昔の道幅の街道がしばらく続いている。

追分石は痛みがひどく文字の判読は困難である。 上述は道標脇の筑前町教育委員会による案内板より引用した。


高橋(たかばし) 標高:45.1m MAP  4km以内の寺院検索

高橋
高橋 
草場川 - 上流に向って撮影
草場川 - 上流に向って撮影 
草場川 - 下流に向って撮影
草場川 - 下流に向って撮影 

橋の傍らに「千間溝(せんげんみぞ)」と題された案内板がある。 それによれば、千間溝とは灌漑用の溝の事で、この溝は平安時代からあったと推測できるという。 しかし『筑前國続風土記』では、すでに廃棄されその痕跡が500mほど残っていたとされる。 現在はほとんど消失しているという。

この周辺は水田地帯となっており、水田と遠くの山々の景色はなかなかのものである。

街道は、この橋を渡り50mほど進んだ所で県道594号線から分岐して右側の狭い道を進む。


矢野酒店前の四角 標高:41.5m MAP  4km以内の寺院検索

  • 矢野酒店(写真手前が日田街道。秋月街道は写真左手から合流する。)
    矢野酒店(写真手前が日田街道。秋月街道は写真左手から合流する。) 

矢野酒店前で秋月街道は日田街道と一旦合流する。 この2つの街道は、ここから南進して依井・新町の信号を渡り50mほどの所の追分地点迄同じコースを辿る。

ご注意:依井・新町交差点の進行方向の信号機には「依井・新町」の表示が無く、 その左右方向の信号機にしかない。 作者はそれに気づかず何度もこの周辺を探しまわった。


日田街道との追分 標高:40.7m MAP  4km以内の寺院検索

追分(写真左手白い車の停車している所が日田街道・前方が秋月街道・)
追分(写真左手白い車の停車している所が日田街道・前方が秋月街道・) 
追分で分岐する日田街道
追分で分岐する日田街道 
追分手前の依井・新町の信号(赤信号の先が追分)
追分手前の依井・新町の信号(赤信号の先が追分) 

この追分地点には、それを示す標識や目印となるものは何もない。 少しわかりづらいかもしれません。


高野神社 標高:35.4m MAP  4km以内の寺院検索

阿弥陀堂
阿弥陀堂 
本殿
本殿 
鳥居
鳥居 
参道 - 水田の中を通っている
参道 - 水田の中を通っている 
恵比寿石像
恵比寿石像 
猿田彦の石塔
猿田彦の石塔 

境内の案内板(平成25年3月 筑前町教育委員会)によれば、寛政14年1637勧請された記録があるという。 境内には恵比寿石像・猿田彦の石塔・阿弥陀堂・文化の年号銘の石灯籠などが見られる。

秋月街道をゆく 』によれば、現在、道は神社東側を通過しているが、 昔の街道は西側を通過していたという。 そのせいかどうか分からないが、参道は微妙に現在の道路からずれて、水田の中となっている。