赤間宿(あかま) 旧:宗像郡赤間村 現:宗像市赤間 AKAMA STA.

概要

赤間宿の行灯
赤間宿の行灯 
赤間宿の街並
赤間宿の街並 
往時の想像図
往時の想像図 
現在の図
現在の図 

赤間(あかま)の名前の由来については、近くの七社宮(ななしゃぐう)(七社神社)前の案内板に 次のような神話が書いてある。

神武天皇が、当地をお通りになった時、道に迷われました。その時赤い馬(●●●) に乗った威容のある老人が現れ、天皇をご案内しました。里人はこれは神がお導きに なったと信じ、この地を神地としてあがめました。

芦屋宿»赤間宿»原町»大穂町»畦町宿へと続く唐津街道のメインルートと、 これより東の猿田峠を越えて進む長崎街道の木屋瀬宿(赤間道)あるいは、 涼天満宮(底井野往還)に向かうルートの分岐点であった。

下に『筑前国続風土記拾遺』巻之38 宗像郡 下 赤間村の項を引用する。 当時の賑わいが伺える。

官道の驛なり。 鞍手郡木屋瀬驛より此処に至りて3里29町、是より當郡畝町驛[1]に至りて2里あり。 宿内に國君の行館あり。 町の長(こん)西南より(うしとら)東北に至りて5町あり旅店あり。 工商農人雑居し人寰多く連れり。 街衢3條あり。 通筋上番中番下番の名有、本町横に在町なり。いにしへ垂水峠を越て、鞍手郡赤城峠へ通りし通衢にして、 此処の最初の人居なりし故に本町の名有といふ。 田町芦屋街道なり。 石丸村七社神を産霊とす。 むかし赤馬院内又赤間庄といひしハ今村(ことごと)くハ傳らす。 朝町 多久 須恵 三郎丸 土穴 野坂等ハ赤間院内なるよし。 中比は鞍手郡に属せし物に見えたり。

[1]畝町驛:畦町驛のこと。昔はこのようにも表記したようである。


右に法然寺の脇にかかげてある案内図の写真を掲示する。 よくできた案内図で新旧の対比ができる。

ルート

東構口 → 須賀神社脇の分岐点 → 赤間宿 → 西構口 → 追分石 → 釣川 → 赤間小学校前交差点 → 阿政の墓 → 宮田2丁目付近 → 宮田橋 → 野坂交差点 → 原神社 → 原町

東構口 MAP  4km以内の寺院検索

  • 赤間宿の一番登りきったところの門
    赤間宿の一番登りきったところの門 

この赤間宿の手前の芦屋宿への街道はしばらくの間福岡教育大学の学内を通っていた。 しばらくの間道は消失する。

東構口のすぐ脇は現在はJR鹿児島本線教育大前駅である。 このあたりは福岡教育大学の学生街である。


須賀神社脇の分岐点 MAP  4km以内の寺院検索

道標
道標 
分岐点
分岐点 
須賀神社全景
須賀神社全景 
須賀神社
須賀神社 
「石松林平・伴六の碑」(左手)と「節婦阿政の碑」 - 須賀神社境内
「石松林平・伴六の碑」(左手)と「節婦阿政の碑」 - 須賀神社境内 
辻井戸 - 須賀神社境内
辻井戸 - 須賀神社境内 

長崎街道木屋瀬宿(赤間道とも内往還ともいう)・あるいは同涼天満宮から来た道(底井の往還)がここで唐津街道と合流する。 涼天満宮の唐津街道沿いの鳥居脇には近年建てられたと思われる道標(西面「従是左 芦屋」、南面「従是右 木屋瀬」)が見られる。

須賀神社境内には、辻井戸・「石松林平・伴六の碑」・「節婦阿政の碑」がある。

案内板によれば、当時宿場内には辻井戸は7箇所あり、現在も2箇所残っているという。 (作者は1箇所は未確認。)

「石松林平・伴六の碑」の案内板の内容をそのまま記載する。

石松家は、徳重村の豪農で10代にわたって村役(むらやく)であった。 林平と伴六の2人は質素勤勉・倹約を心がけ、荒地を開いて植林し、 「農業全書」を配布するなど農村の振興につとめた篤農家(とくのうか)でもあった。 天保の凶作(1830年代)の時には人々を自ら救済し、 宗像米を薄利で貸し出す制度を始め、 その後宗像郡内に広まった。 安政の始め(安政元年1854)には許斐山(このみやま)山頂に()を曳き上げ、 時を報じさせた。

平成14年2月 作成

「節婦阿政の碑」の案内板の内容をそのまま記載する。

節婦阿政(せっぷおまさ)は、 大黒屋七兵衛の後妻の娘で、 父が亡くなる時に本家の息子と許嫁(いいなずけ)の約束をしたが、 本家が衰微して婚礼を挙げることができなかった。 この時、勝浦の大庄屋から息子の嫁にと申し込まれたたが阿政は 「父の遺言に背くのは親不孝であり、衰微した本家を見捨てるのは、女の節操でない。」 と考え、再三の申し入れにも従わなかった。 阿政は逃れることができないと悟り、 婚礼の夜遺言を残して自害し果てた。 享和元年1801阿政が18歳のことだった。 頼山陽(らいさんよう)も「節婦阿政伝」としてこのことを記している。

平成14年2月 作成

彼女の墓が西構口を出て程無い所にある(阿政の墓参照)。 そこの赤間地区まちづくり推進協議会による案内板によれば、 この事件はお上(黒田藩)には「政は狂死をした」と届け出られた。 関係者の罪をおそれての事という。 村人の中には「そうでない」と怒る者もいたという。 それから、17年後、10代藩主黒田斉清(なりきよ)は、政の貞節の真相を知り、文化14年181711月に政の兄赤間村松尾嘉右衛門に白銀15枚を与え、政の貞節をたたえたという。


赤間宿 MAP  4km以内の寺院検索

赤間宿の街並
赤間宿の街並 
赤間宿の街並(左手に見えるのは法然寺である。)
赤間宿の街並(左手に見えるのは法然寺である。) 
法然寺境内の石碑(赤間でなく赤馬である。)
法然寺境内の石碑(赤間でなく赤馬である。) 
法然寺横にある五卿西遷の碑
法然寺横にある五卿西遷の碑 
法然寺横にある五卿西遷の碑
法然寺横にある五卿西遷の碑 
須賀神社
須賀神社 

赤間宿は、坂の中腹にある宿場で全て家が坂に沿って建てられている。 赤間宿内の道も当然坂道である。

宿場内には当時から浄土宗法然寺,浄土真宗浄万寺が伽藍を構えていた。 御茶屋(本陣)は法然寺の西側・浄万寺の北側にあった。 両寺は藩主・もしくは赤間宿で休憩もしくは宿泊するときの防御の拠点とされたのであろう。


西構口 MAP  4km以内の寺院検索

  • 赤間構口交差点 - 宿場内に向って撮影
    赤間構口交差点 - 宿場内に向って撮影 

ここは赤間宿の西側の出入口であった。 番所ががあったかどうかは未確認。


追分石 MAP  4km以内の寺院検索

  • 追分石 - 畔町宿に向かって左脇にある
    追分石 - 畔町宿に向かって左脇にある 
  • 追分石
    追分石 

追分石は橋のたもとのイチョウの木の脇にある。思ったより小さいので見逃されないよう。

銘は右の石柱には「此方鞍手郡山口道」「此方畔町道」。

左の石柱には「自是(これより)下田久鎰分之内迄八百六十一間」「一番自是下川巾五間」「寛政三1791??四月定」。 左の石柱の裏の銘は現在判読できていない。


釣川にかかる橋の西側の石碑 MAP  4km以内の寺院検索

  • 釣川手前の石碑
    釣川手前の石碑 

「唐津街道 赤馬宿」とある。"赤間"でなく"赤馬"である。


赤間小学校前交差点 MAP  4km以内の寺院検索

  • 赤間小学校前交差点 - 赤間宿に向かって撮影
    赤間小学校前交差点 - 赤間宿に向かって撮影 

左側が赤間小学校。正面に見える山は 城山。


阿政の墓 MAP  4km以内の寺院検索

墓碑(正面)
墓碑(正面) 
墓碑前の唐津街道 - 畦町宿に向って撮影
墓碑前の唐津街道 - 畦町宿に向って撮影 
墓碑(遠景)
墓碑(遠景) 
墓碑(側面)
墓碑(側面) 
墓碑(裏面)
墓碑(裏面) 
街道沿いの参道口
街道沿いの参道口 

街道沿いに、「節婦お政墓道」と刻まれた石碑が建てられている。 参道を登って行くと江戸末期・明治初期の墓石が多数安置されている。 その先に阿政の墓碑が建てられている。

墓碑の全面にはびっしりと讃が刻まれている。 お政の事件の内容はここをご覧ください。


宮田2丁目付近 MAP  4km以内の寺院検索

  • 宮田2丁目付近 - 畔町宿に向かって撮影
    宮田2丁目付近 - 畔町宿に向かって撮影 

この付近にも白壁造りの建物が観られる。正面に見えるのは、許斐(このみ)山である。


宮田橋 MAP  4km以内の寺院検索

  • 宮田橋-赤間宿側に向かって撮影
    宮田橋-赤間宿側に向かって撮影 

原町より国道3号線の高架をくぐってほどなくすると宮田橋がある。


野坂交差点 MAP  4km以内の寺院検索

  • 野坂交差点-畔町宿側に向かって撮影(左右方向が国道3号線)
    野坂交差点-畔町宿側に向かって撮影(左右方向が国道3号線) 

街道はここで国道3号線と交差する。写真の左右方向が国道3号線。右前方が畔町宿に向かう唐津街道。


原神社 MAP  4km以内の寺院検索

  • 一の鳥居
    一の鳥居 
  • 原神社
    原神社 

原神社は、野坂交叉点を渡るとほどなく左側の小高い丘に鎮座されている。 石段を上りつめると本殿があり、境内は芝生で広場となっている。

原神社脇の街道の先は次の原町である。